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なぜか二冊も

昨年来のコロナ禍で、ずいぶん長いこと、海外に行けていない。去年の年明けに五日間ほど台湾に行って以来、ずっとだ。ラダックにも、アラスカにも。これから先、いつからまた行けるようになるのか、その見通しもまだつかない。

これだけ長い間、日本に釘付けにされていると、本やら何やらを作るためのアイデアも、さすがに枯渇してきそうだ。実際、今年六月に『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』を上梓した時は、「はいっ、もうこれですっからかん。ネタのストック、もう何にもなし!」という気分で、すぐには次の手を考えることさえできなかった。

ところが今は、なぜか二冊分もの企画を、同時進行で検討しているのだから、わからないものだ。

一冊は、以前から考えていた企画を具体的なロードマップに載せて、形にする方向で調整しているところ。もう一冊は、ほんの数日前にふと思い浮かんだアイデアが、みるみるうちに具体的な形となって固まりはじめているところ。一方はラダックについての本だが、もう一方は、大半がラダック以外の話についての本だ。で、どちらの企画も、出版社との相談を始めている。

実現できるといいなあ。できれば、どちらの本も。そうなると、これからまたしばらく、せわしない日々が続きそうだけど。

次の次、そのまた次

少し前から、次に書こうとしている本の企画書作りに取り組んでいる。

この本に関しては、アイデア自体は以前からあって、「まったく新しいもの」というよりは、「すでにあるものをよりよい形に置き換えるもの」だ。アイデアさえ固まれば、原稿はすぐにでも書き始められるのだが、最終的に本として仕上げるには現地取材が必要なので、完成はまだだいぶ先になりそうだ。でも、頭の中で、ああしようかな、こうしようかな、とアイデアを練るのは、やっぱり楽しい。

この本の次に作ろうかなと考えている本も、実はうっすらとイメージはある。これは、最初からかなりがっつりと現地取材をして、その上で方向性を見定めていくことになりそうで、本として書けるかどうか、今はあまり自信がない。まあ、『冬の旅』の時も、旅の途中までは本にできる自信はまったくなかったから、この企画も実際にやってみないとわからないけれど。

で、そのまた次に作りたいと考えている本も、あるにはあるのだが、これはさらにイメージが茫洋としていて、どこから手をつけていいのかもまだはっきりわからない。ただ、いつまでも足踏みを続けているわけにもいかないので、動けるようになったら積極的に動いていきたい、とは思っている。

そんなこんなで、アイデアは、たくさんある。あとは、いつ海外に普通に行けるようになるか、だな。

フヅクエで本を読む

最近は、仕事がそれほど忙しくないのもあって、週に一度くらいのペースで、フヅクエ西荻窪店に行っている。

フヅクエは、「快適に本を読む」ための環境を提供することに特化したお店だ。その決まりごとについてはお店のサイトを見てもらうのが手っ取り早いが、会話やおしゃべりは禁止、パソコンやタブレットでの作業も禁止、ノートを開いての勉強なども禁止。基本的に、お店の提供する飲み物や軽食をいただきつつ、自分で持ち込んだ本かお店に置いてある本を読むことだけが推奨されている。これまでは初台と下北沢にお店があったのだが、二カ月ほど前に西荻窪店もオープンした。

こう書くと、規則でがんじがらめの窮屈なお店と思われるかもしれないが、まったくの逆。「一人で静かにゆっくり本を読み耽りたい」という人には、これ以上ないくらい居心地のいい場所だ。店内はゆったり落ち着いた雰囲気で、照明の加減も、椅子の座り心地も、本を読むのにうってつけ。軽食も飲み物もおいしい。他のお客さんも互いに気を遣いながら、静かに自分の本に集中している。その気になれば、3時間でも4時間でも本を読み耽っていられる。店内は混み合っているわけでもなく、そもそも誰も声を発しないので、今みたいなコロナ禍の状況下でもかなり安心して過ごせる。

僕の場合、昼過ぎから予約を入れて、初めに軽食と飲み物をいただいた後、ただただひたすら本を読み、途中で飲み物の追加注文を入れたりして、3時間ほどでお店を出る、というパターンにしている。今はカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』を熟読中。贅沢な時間だ。本を読むことの愉しさ、豊かさを、あらためてしみじみ実感している。

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アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』読了。稀代のストーリーテラー、ル=グウィンによる小説執筆のための手引き。英語と日本語の性質の違いはもちろんあるが、僕のようなノンフィクションの書き手にも参考になる部分が多かった。今までの経験値で何となく身につけていたつもりの文体や技法を、あらためて整理して見直すきっかけにできそう。それにしても、ル=グウィン先生のコメント、どれもめっちゃ直球で、グサグサ刺さる(笑)、いい意味で。

読んだ本、観た映画

最近読んだ本や、観た映画の感想を、とりあえず短めにまとめて記録。

マーセル・セロー『極北』
チェルノブイリ近郊で立入禁止区域に残って一人で暮らす女性に著者が出会ったことが、この本の着想のきっかけだったそうだ。今よりも少し未来の、人類の黄昏時の物語。その黄昏時は、僕たちが暮らしている現実の世界にも、着実に忍び寄ってきているように感じる。何百年も先のことではなく、たぶん、もっと近くに。

『ジャッリカットゥ 牛の怒り』
ケーララ州の密林にある小さな村で、食用にするはずの水牛が脱走して大暴れ。水牛を捕まえようと追いかけ回す男たちは、やがて得体の知れない狂気に蝕まれていく。最初は「これ、怪獣映画やん」と思いながら観てたのだが、何のことはない、人間どもの方がよっぽど怪獣じみていた。面白いかと言われると、うーん、どうだろ。観る人を選ぶのは間違いない。

『竜とそばかすの姫』
前作は正直いまいち刺さらなかったのだが、今作は、細田監督の十八番であるサイバーワールドを舞台装置にした物語で、奔放で鮮やかなビジュアルと、主演の中村佳穂さんの歌声の吸引力に、文字通りシビれた。観終わってしばらくして、少し物足りないかも、と思い返したのは、仮想世界「U」の機能やディテールの描写だろうか。ユーザーが匿名のアバターとなって「もう一つの人生」を生きられる場所とされていたが、具体的にそこでどんなことが実現できるのか、もっとアイデアを見せてもよかった気がする。

本の価値を決めるもの

去年雷鳥社から刊行した『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』が、日本旅行作家協会が主催する紀行文学賞、第6回「斎藤茂太賞」を受賞した。

自分の本がこの賞の最終候補に残っているという情報を知ったのは、今年の5月。それから、コロナ禍などの事情で最終選考の実施が2カ月ほど遅れ、ようやく先週決定したのだそうだ。

雷鳥社の担当編集者さんから電話を受けて、最初に感じたのは、とにかく「ほっとした」という安堵の思いだった。これで、この本を作る際に力を貸してくれた大勢の方々に、少しだけ恩返しができた。……というより、土壇場で選にもれて関係者の方々をがっかりさせずに済んだ、という気持の方が強かったかもしれない。実際、去年一年間で、僕の本より売れた紀行本は山ほどあったし、メディアで数多く取り上げられた本も他に何冊もあったから。

世の中にある数多の文学賞は、読者が本を選ぶ時の参考にできる、ものさしの一つにはなると思う。ただ、そうした文学賞は、その本自体の絶対的な価値を定義したり保証したりするものではないとも思う。売上部数やメディア露出も、読者にとってのものさしにはなると思うが、それもまた、本自体の絶対的な価値を決定づけるものではない。

本は、それが内容的にある一定の水準を満たしているものなら、良し悪しや優劣を第三者が決めることにはあまり意味がない、と僕は思う。読む人それぞれが、好きか、そうでもないか、と判断すれば、それで十分だ。ある人にとってはありきたりの内容の本でも、別の誰かにとってはかけがえのない大切な本かもしれないのだから。

ただ、内容的にある一定の水準を満たせていない本、具体的には、誰かを不当に貶めたり傷つけたりする内容が含まれる本や、事実を誤認させる情報が載っている本、他の本のアイデアや内容を剽窃している本は、そもそも俎上に載せてはならないとも思う。残念ながら、書店にはそういう本も少なからず並んでいるけれど。

僕にとって、自分が書いた本に価値があるかどうかを実感させてくれているのは、読者の方々一人ひとりからお寄せいただいた、メールや手紙、SNSなどに書かれた、読後の感想だ。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』に対しても、本当にたくさんの感想をいただいた。冬のザンスカールへの想い、自然と人とのあるべき関係、人生の持つ意味について考えたことなど……。その感想の一つひとつが、僕にとっては、本当の意味でのトロフィーだと思っている。そうした感想に目を通すと、また全身全霊を込めて本を作ろう、と気持を奮い立たせることができる。

本の価値は、読者の方々、一人ひとりに、委ねるべきものなのだと思う。