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いい本だけど、売れない?

自分自身が作ってきた本も含めて、の話なのだけれど。

同業者と話をしていると、「あれ、いい本だと思うんだけど、売れないんだよねえ」といった話を時々聞く。僕自身、そんなことを口にした経験は何度もある。でも、あらためて考えてみると、それってどうなんだろう? と思わなくもない。「いい本だけど、売れない」のは、読者がそのよさを理解できないからではなく、企画から発売までの段階で、作り手が何かを読み違えたからではないだろうか?

「いい本で、しかも売れる」ための答えがはっきりわかっていれば、誰も何の苦労もしないのだが、もちろんそんなことはなく、結局、売れるかどうかは出してみなければわからない。ただ、ある程度経験のある編集者が関われば、その本の企画なら、全国的におよそどのくらい読者になりうる人がいて、どのくらいの数を刷ればその人たちに届くのか、いくらかは読めるようになる。たとえたいした冊数でなくても、そうして想定した数の読者にしっかりと届くように本を販売できたのであれば、僕はその本は役割を果たしたと思うし、「ちゃんと売れた、いい本」だと思う。ただ、そこからさらに読者が広がるかどうかは、ほんと、神のみぞ知る、だ(苦笑)。

付け加えるなら、個人的に「いい本」の条件だと感じているのは、「耐久力」だと思う。刊行から年月を経れば、細かい掲載情報が古びていくのは当然なのだが、それでも本質的な部分が劣化することのない本は、確かにある。ひっそりと、でも確実に読み継がれていく本。僕も、そういう本を作ることを目指したいと思う。

旅と写真とキャパと僕

昨日、横浜美術館で「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展を見て、思い出したこと。

世界でもっとも有名な報道写真家、ロバート・キャパ。僕にとって彼は、その短い生涯と作品を通じて、「写真家」という存在を意識するようになるきっかけを与えてくれた人だった。いや、それだけではない。僕の中で、「旅」と「写真」という二つの行為が分ちがたく結びつくきっかけを与えてくれたのも、キャパだった。

1992年の春、生まれて初めての海外一人旅。ザックの中には父が送ってきたありふれたコンパクトカメラと、何気なく買った文庫本が一冊。当時はたいして写真に興味のなかった自分が、なぜその一冊にキャパの「ちょっとピンぼけ」を選んだのか、今もよくわからない。神戸から上海まで船で渡り、シベリア鉄道でロシアを横断し、夜行列車を宿代わりにしながらヨーロッパをほっつき歩いた数カ月の間、何度もこの本を読み返した。祖国を追われ、危険な戦場に身を投じて写真を撮り続けた日々のことを、キャパはユーモアと優しさと、時に悲しみを交えながら書いていた。彼の文章を読んだ後に自分の目で見る未知の世界には、何かが透けて見えるような気がした。それが何かはわからなかったけれど、その「何か」に向けて、僕はシャッターを切った。

世界を自分の目で見るということ。それを写真という形で誰かに伝えること。いつのまにかその行為は、僕にとって、旅と切っても切り離せないものになった。もし、あの最初の旅に持って行ったのがキャパの本でなかったら、そんな風に考えるようにはならなかっただろうし、今のように写真を仕事の一部にするようにもならなかっただろう。そう思うと、キャパの「ちょっとピンぼけ」は、僕の人生に一番大きな影響を与えた本なのかもしれない。

半世紀以上も前に撮られたキャパとゲルダの写真を眺めながら、僕は、あの旅で感じた気持を思い起こしていた。

本づくりという仕事

昨日の夜は、上野毛にある多摩美術大学へ行き、西村佳哲さんのプレデザインをテーマにした一般公開授業を聴講してきた。この日のゲストは、夏葉社の島田潤一郎さん。このお二人の組み合わせなら、必ず面白いお話が聞けると思っていたのだが、予想に違わず、とても面白かった。

吉祥寺で、たった一人で出版社を営んでいる島田さん。世の中に足りないと自分が思える本、三十年後も書店に並んでいるような、長く読み継がれていく本を作りたい、と話していた。本は、必ずしもわかりやすいものではない。でも、単なる情報の容れ物とは違う、読んだ時の記憶や感情が宿ったものとして存在し続けることによって、生活に豊かさをもたらしてくれる、と。そういう話からは、島田さんの本に対する愛情と畏敬の念がひしひしと伝わってきた。

本づくりという仕事では、作家や装丁家、書店員との間でのコミュニケーションがすべての根幹だと島田さんは考えている。相手の仕事を尊敬していると誠心誠意伝えて、できれば自分のことも好きになってもらって、相思相愛になる。そうして自分が好きな人と一緒に仕事をするのが、一番幸せなのではないか、と。本の企画を考える時は、人が見えないとわからなくなる。実際に存在する具体的な読者を二百人くらいはイメージできるけど、何万人もは無理。あと、こういう仕事ではゼロから始める感覚が重要で、前と同じやり方でうまくいくと予測できてしまう仕事は面白くないし、やりたくない、とも話されていた。

なるほど、と気付かされることもあり、あるある、と共感できることもたくさんあった。肩肘張らない自然体で、まごころの籠った本づくりをしている方の話を聞いて、いい波動を受け取れた気がする。何だか元気が出てきた。

節目の味

昨日の夜は、書籍校了後の恒例、李朝園での打ち上げ。DTP作業でお世話になった中村さんやたかしまさんを交えた、楽しい宴になった。

李朝園、あいかわらずの、飾らない、でも安心のうまさ。熱い七輪の上でジュワジュワ焼けた肉を頬張ると、「あー、また一冊、終わったなあ」としみじみ思う。そういう風に自ら習慣付けたからだけど(笑)、僕にとって李朝園の焼肉の味は、本づくりの仕事が一つ終えたことを示す、節目の味になった。

今年は、あと何回、この味を楽しめるかな。一回か、二回か‥‥。

編集者とライターの目線

昨日の夜は新宿で、知人の団体主催の電子書籍関連のイベントに参加。こういう同業者が集まる会に顔を出したのは、割とひさしぶりかもしれない。

終了後の飲み会の席で、こんなことを訊かれた。本を作る時、ライターとしての目線と、編集者としての目線は、どこで切り替えているのか? と。

僕の場合、書いてる間は常にライター目線だと思う。原稿が仕上がってゲラとして目の前に出てきた時、初めて編集者モードに切り替えて、突き放した目線で本として仕上げていく。だったら、原稿を書く前に構想を練ったり、途中で構成を検討したり、書き上げた原稿を推敲する時は編集者目線ではないのかと言われると、僕はそういうのも含めて常に同じ感覚で検討している。一冊の本としての完成形をまずきっちりイメージして、そこに向かって作り込んでいくのだが、ほとんどの場合、書きはじめる前に構成は固まっていて、ものによっては台割まで決め込むこともある。それはライターより編集者の目線に近い、と指摘されるなら、そうなのかもしれないけど。

どちらかというと、制作の各段階で俯瞰して全体を見渡したり、細部の精度にこだわったりといった切り替えの方が、一人で本づくりをする際には重要になると思う。うまくいってると思い込むと、往々にして失敗の原因になるから。