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岸辺へ

昼、荻窪で打ち合わせ。来年の春頃を目指して、ある本を新たな形で作ることになった。

打ち合わせを終え、陽射しが照りつける線路沿いの道を歩きながら、ああ、僕はついに、岸辺に辿り着いたのだ、と思う。この本の原型となるアイデアを思い立ったのは約三年前。それからの日々はまるで、対岸の気配すら感じられない、濃霧のたちこめる海に小舟で漕ぎ出したようなものだった。いくつもの出版社から門前払いされたり、適当にあしらわれたり、反応さえしてもらえなかったり。いったい何度、悔しい思いをしただろう。それでもあきらめられずに、僕はもがき続けてきた。

それから時間が経つうちに、この企画を取り巻く状況も少しずつ変わってきた。アイデアと戦略を軌道修正し、人のつながりにも助けてもらって、ようやく、本当にようやく、僕は今、岸辺に辿り着いたのだ。最終的に作ることになったこの本は、今にして思えば、運命としか言いようがないというか、作るべくして作ることになった本だと思う。

これは僕にとって、ある意味、一番大切な本になるかもしれない。

ウィリアム・プルーイット「極北の動物誌」

Animals of the Northウィリアム・プルーイットの名を知ったのは、たぶん他のほとんどの日本人がそうであるように、星野道夫さんの「ノーザンライツ」を読んだのがきっかけだった。

星野さんはこの本の冒頭で、かなり多くのページを割いて、かつてアラスカで実施が検討されていたという核実験計画「プロジェクト・チャリオット」について書いている。その核実験計画に対してアラスカで展開された反対運動で重要な役割を担ったのが、当時、アラスカ大学でもフィールド・バイオロジストとして右に出る者のいない存在であったプルーイットだった。核実験場の候補地に挙げられていたケープ・トンプソンの環境調査を担当した彼は、核実験で放出される放射能が極北の生態系に壊滅的なダメージを与えてしまうという調査結果を報告したのだ。

その後の根強い反対運動が功を奏し、プロジェクト・チャリオットは中止に追い込まれた。だが、それと引き換えに原子力委員会からの見えない圧力を受けるようになったプルーイットは、大学での職を追われ、アラスカだけでなくアメリカからも離れざるを得なくなり、カナダに移住し、そこで極北の自然についての研究を続けることになった。アラスカ大学での彼の名誉が回復されたのは、それから30年も経ってからだった。

1967年に刊行された彼の著書「Animals of the North」が、日本で「極北の動物誌」という本に翻訳されていたのを僕が知ったのは、もう新品が店頭に並ばなくなってからのことだった。残念に思っていたのだが、少し前に、状態のいい古本を手に入れることができた。ゆっくり、時間をかけて、かみしめるように味わいながら読んだ。

トウヒの木。アカリス、ハタネズミ、ノウサギ、オオヤマネコ、オオカミ、カリブー、ムース。極北の自然とその中で生きる動物たちの営みを、プルーイットの訥々とした筆致は、丁寧に、正確に、そして、鮮やかに描き出していく。膨大な時間をかけて、自ら原野を旅し、調査を重ね、見つめ続けた者にしか書けない文章だ。これ以上ないほど抑制の効いた文章なのに、そこからあふれて滲み出ているのは、極北の自然に対する彼の憧れと畏敬の念、そして愛情としか言いようのない思い。生命の尊さと儚さ、それらが巡り巡るからこそ、自然は自然たりうるのだということ。同時に彼は、現代社会に生きる我々人間が、そうした自然の摂理をいとも簡単に踏みにじり、時に回復不能なまでに傷つけてしまうことに鋭い警鐘を鳴らしてもいる。

極北の自然を愛し、その研究に一生を捧げた男。愛する自然を守ろうとしたがゆえに、アラスカから去らねばならなくなった男。彼の遺したこの「極北の動物誌」は、これからも折に触れて読み返しては、ツンドラの冷たい風の感触を思い出してぼんやりと物思いに耽りたくなる、そんな一冊だった。

それは本ではない

神戸連続児童殺傷事件の犯人が書いた本が、週間ベストセラーランキングで1位になったそうだ。版元は初版の10万部に加え、5万部を増刷。その一方、一部の書店では販売を中止する動きも増えているという。

この本については、出版社と著者が事前に遺族の了解を取っていなかったというその一点だけで、完全にアウトなので、内容の是非を論ずるに値しないと僕は考えている。出版社の社長がこの本についてどれだけそれっぽい社会的意義を並べ立てても、遺族の了解という絶対に外してはいけない手続きを確信犯的に外している事実に変わりはない。正直、反吐が出る。この本を書いた今では少年ではなくなった男にも、出版社の関係者にも、そして、遺族の了解を得ていないとわかっていながらこの本を買った人にも。

本は、人に寄り添い、支えるためのものだ。絶対に、傷ついた人の心をさらにえぐるようなものであってはならない。そんな本があるとしたら、それは本ではなく、紙クズ以下のものだ。

本を作る仕事に携わる者として、力を貸してくれるスタッフや書店員さんたち、そして読者に顔向けができないような本だけは、絶対に作らないようにしなければ、と思う。

足跡のない荒野

一昨日、昨日と、僕が仕事でいかにほかの人と競い合わないようにしてるかということについて書いたが、じゃあそれで毎日ラクに過ごせてるのかというと、まったくそんなことはない。むしろ、足跡のない荒野を突っ切ろうとしてる時点で、人よりしんどい思いをしてるのではないかと思う。

一冊の本に自分の思いの丈を込めて作り上げるという作業は、本当に、ものすごい量のエネルギーを消費する。そもそも本を出せるような状況に持っていくには、それだけで何カ月も、場合によっては一年以上もかけて、時に理不尽なことにも耐えながら粘り強く交渉し続けなければならない。いろんなものごととの戦いで、ほんと、ヨレヨレのボロボロになる。今も割とそういう状態に近い(苦笑)。

こんなにつらいなら、やめてしまえばいいじゃないか、と思う時もある。もっとラクな立ち位置に逃げてしまえばいいじゃないかと。でも、やっぱり、ここから逃げるのは、自分の心に背くことなのだ。心の底から作りたいと思える本を作ることのできる可能性があるのなら、それがゼロにならないかぎり、みっともなくてももがき続けるのが、自分の選んだ道なのだと思う。

だからこれからも、誰もいない、足跡のない荒野を歩く。

100人中、何人?

僕は基本的にアマノジャクなので、世の中で100人中100人が「いい!」と言ってるものには、怪しんで近寄ろうとしないところがある。百万部のベストセラーの本とか、大ヒット街道爆進中の映画とか、ヘビロテされまくりの歌とか、長い行列のできるパンケーキ屋とか。それは感覚的にひねくれてるところがあるからだろうな、と自覚している。

文章なり写真なりで本を作る側の立場からすると、ビジネスの視点だけで考えれば、100人中100人が「いい!」と喜んで買ってくれるような本づくりを目指すべきなのかもしれない。でも、そうしたアプローチはほぼ間違いなく、うまくいかない。何を伝えたいのかがぼやけて、結局、面白くも何ともないものになってしまう。少なくとも、ひねくれ者の僕は、そういう本を面白いとは思わない。

少なくとも本づくりに関しては、作り手自身が面白いと思えるものをぶれずに目指すのが一番いいと思う。それが、100人中1人にしか届かなかったとしても、その1人の心をほんの少しでも動かすことができたなら、その本には、この世界に存在すべき価値がある。