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個性的な旅人たち

昨日に引き続き、「旅の本を作るという仕事」というテーマについて考えていた時、もう一つ、ふと思い当たったこと。

最近、普通の旅行者とはかなり違った「個性的な旅人」を標榜する人、あるいは目指している人が多くなったように感じる。職業の肩書きであったり、特殊な旅の仕方であったり、服装とか、行く先々でのお約束的な行動とか、その他にもいろいろある。よく考えつくなあ、面白い、と感心させられるものも少なくない。

ただ、人によっては、旅人としてのプロフィール欄を飾ることに執着しすぎているというか、自分自身をキャラクター化、タレント化することに気を取られすぎているというか、そもそも、そのキャラ設定で旅に出る理由と必然性は何なの? と勘ぐりたくなる事例もちらほらあるように思う。それで「自分の旅の経験を本に書きたいんです!」という人には、旅先で見聞きして感じた経験を読者に伝えたいのか、それとも旅先で面白いことをやらかしているキャラ化した自分の武勇伝を書きたいのか、どっちなんだろう、と思ってしまう。目的が後者であれば、別に無理して旅に出なくてもいいような気もするのだ。

旅の仕方は人それぞれ、自由であっていいとは思う。ただ、僕自身は、旅の本を選ぶなら、自分が興味のある土地の文化や人々の様子が丁寧に描かれている本を選びたい。

違う選択肢

昨日の深夜、ふと、そういえば、と思い当たったことなのだけれど。

6年前に他界した僕の父は、高校で国語の教師をしていた。現国、古文、漢文。でも、僕が子供の頃に父から与えられていたのは、海外文学を翻訳した本ばかりだった。岩波書店から刊行されていた本が多かったと思うが、それはもう、本当に徹底していて。日本の作家の本を与えられた記憶は、まったくと言っていいほどない。その影響が刷り込まれているからなのか、僕は今も本屋をぶらついていると、しぜんと海外文学の棚に足が向いてしまう。

父自身が海外文学を好んで読んでいたかというと、そうでもなく、書斎の本棚に収まっていたのは日本の作家の本や実用書ばかりだった。彼はなぜ、子供の頃の僕に海外文学の本ばかり与えたのだろう。当時の父の意図は、今はもう知るすべもない。ただ、もしかしたら彼は、自分自身とは違う選択肢を僕が選ぶこともできるように、可能性の幅を持たせてくれたのかもしれない、とは思う。

結果的に僕は、父とはまったく違う道を選び、イバラだらけの道に突っ込んでしまった。でも、違う選択肢を選べる幅を持たせてくれた彼には、感謝している。

「地球の迷い方」

去年の暮れ、旅好きな人が集まった飲み会に参加した。その場に来ていた初対面の人に僕の仕事について聞かれたので、「ついこの間まで、“地球の歩き方”の取材でタイに行ってました」と答えると、あっけらかんとこんな風に返された。

「“地球の歩き方”って、“地球の迷い方”だってよく言われますよね。自分も、あれの地図を見てもどこにいるのか全然わからなかったし」

僕としては、「そうですか……。ほかの人の作った本は知りませんが、少なくとも僕は、自分の担当地域のページはそれなりにがんばって作ってるつもりなんですが」と返事するしかなかった。

仮に自分の手がけたガイドブック(全部にせよ、部分的にせよ)が批判された場合、その内容が的を射たものであれば、僕はそれを受け入れるし、次回の取材の参考にしたいとも思う。なので、批判はじゃんじゃんしてもらって構わないのだが、あの時、その初対面の人に言われたのは、もっと漠然とした、先入観のようなものからの言葉だった気がする。

「地球の歩き方」を「地球の迷い方」と揶揄する言い方は、ずっと昔から聞いてきた記憶がある。ある程度旅に慣れてきた人が、旅先の現状が「地球の歩き方」に載ってる情報から変わっていたのを見つけた時とかに、そんな風に言ったりしていた。そういう人たちの話しぶりには、「自分は“地球の歩き方”よりも正しい情報を知っている。間違った情報にもめげずにうまく切り抜けた。ガイドブックに頼るなんてカッコ悪いよ」みたいなニュアンスも、ちょこっと入っていたかもしれない。

彼らの旅の仕方を否定するつもりは全然ないのだけれど、一つだけ言えるのは、彼らが現地でモノにした、「地球の迷い方」よりも正しい最新の情報も、ほんの数カ月でまた変わってしまう可能性が少なからずあるということだ。ガイドブックの制作や改訂のための取材では、僕たち取材者は可能なかぎり最新の正しい情報を入手しようと努力する。でも、本が刊行されて数カ月か半年経ってしまえば、取材した時点から変わってしまう情報は、ほぼ必ずどこかしらに出てくる。時間を経ても完璧な内容を維持できるガイドブックなど、まず存在しない。その上で制作側は、読者が旅する時のリスクを最小限に抑えるような記載の工夫をしている。少なくとも僕はそう心がけている。

情報の鮮度による部分以外での掲載情報のミスについては、制作側はむしろ大いに批判されるべきだと思う。でも、単にざっくりしたイメージで「“地球の歩き方”に頼るなんてカッコ悪い」と言いたいがために「地球の迷い方」みたいな揶揄をする人は、正直、その揶揄自体がちょっとカッコ悪いんじゃなかろうか、と思ってしまう。本当の意味で旅を自分らしく楽しめる人は、ガイドブックに頼るか頼らないかなんて、まったく気にもしないはずだ。使える情報は参考にし、自分で確かめた方がいい情報は現地で判断する。それだけのことだ。旅の本質には、まるで関係がない。

ガイドブックだけでなく、Webやスマートフォンで大量の情報が旅先でもたやすく手に入れられる現在。個人的にはむしろ、みんな、もうちょっと迷ってみてもいいんじゃないかとすら思う。旅はある意味、迷うからこそ面白い。

プロの書き手であり続けるための二つの基準

僕は30歳を過ぎた頃にフリーランスとして本格的に独り立ちして、編集者兼ライターとして、いくつかの雑誌で仕事をするようになった。未熟ながらもどうにかこうにか生活できていたのは、すこぶる優秀とまでいかなくても、各編集部からの要求を満たす結果をそれなりに出し続けていたからだと思う。クライアントが求めるものに可能な限り近い成果を上げるためのスキル。それを持っていることは、プロの書き手として最低限の基準だった。

でも、そうしてクライアントからの要求に応えるための仕事を何年か続けていくうちに、このままでいいのか、という気持が胸の奥で芽生えた。自分が本当に心の底から作りたいと思える一冊は、まだ作れていないのではないか。そこから僕は、なぜか日本の仕事を全部ほっぽり出してラダックくんだりまで行って本を書く、という素っ頓狂な道を選んでしまったのだが(苦笑)、今考えるとそれは、当時の自分にはまだ欠けていた、プロの書き手に求められるもう一つの基準を満たすための模索だったのかもしれない。

クライアントが求めるものに応えられるスキルを持っているのは、プロとしての最低基準。その上でクリアすべきもう一つの基準は……自分が書きたいと思えることを自分らしい形で書き、なおかつそれを周囲からも認められる仕事として成立させられるだけのスキルを持っているかどうか。そのスキルには文章力のほかに、企画力や交渉力、苦境にもへこたれない意志の強さなども含まれる。これは書き手だけでなく、写真家やイラストレーターなど他の分野でのフリーランサーにも通じる話だと思うし、それらの分野におけるアマチュアの方々との決定的な違いにもなると思う。

僕自身、自分のやりたいことだけ好きに書いたり撮ったりして生活しているわけではなく、生活費の大半はクライアントから依頼された仕事でまかなっているのだが、自分の仕事の芯となる部分に自前の企画で個性を発揮できる仕事を持ち続けることは、他のクライアントとの仕事にも好影響をもたらすし、いい形で新しい仕事につながっていくきっかけにもなる。

クライアントの要求に応えるためのスキルと、自分のやりたいことを仕事としても成立させるためのスキル。僕自身まだまだ未熟だけれど、これからもプロの書き手、そして写真家であり続けるために、二つのスキルを磨き続けていこうと思う。

憧れた旅

終日、部屋で仕事。一昨日リアルタイムでは聴けなかった、沢木耕太郎さんの年に一度のラジオ番組「MIDNIGHT EXPRESS 天涯へ 2016」を聴きながら作業をする。

今年の沢木さんの話は、ひときわ面白かった。ついこの間まで沢木さんが出かけていた東南アジアの旅の話を、とても軽快に、楽しそうに話されていたからだと思う。サイゴンやアンコール・ワット、シーパンドンの話を聴きながら、僕はぼんやりと、あることについて考えていた。

僕が沢木さんの「深夜特急」を初めて読んだのは、大学生の頃。まだ一歩も日本から踏み出したことのなかった僕は、本を読んで、驚き、あきれ、そして憧れた。その後しばらくして大学を自主休学し、シベリア鉄道でロシアを抜けてヨーロッパを目指す旅をしたのも、その旅の体験を文章で書こうとしたのも、間違いなく沢木さんの旅への憧れからだったし、僕なりの模倣だったと思う。

それから大学を卒業し、書くことを生業にしようとあがき続け、時にまた旅に出て、といったことをくりかえしているうちに……いつのまにか僕は、ほかの誰の旅にも似ていない、僕の旅としか言いようのない旅をするようになっていた。誰にも似ていない文章を書くようになり、写真まで自分で撮るようになった。僕の旅そのものが、僕の仕事の一部になった。

実績の面では、沢木さんの足元にもはるかに及ばないし、今後も追いつくことはまずありえない。でも、沢木さんが今も沢木さんらしい旅を続けてらっしゃるように、僕も僕なりの旅を続けていけたら、とは思う。僕の旅から生まれた文章と写真の評価は、読者の方々に委ねるしかないけれど、もし、僕の本を読んで「自分も旅をしてみようかな」と思ってくれる人がほんの少しでもいてくれたとしたら、こんな嬉しいことはない。

そのための戦いは、これからも、ずっと続いていく。