マキネッタで試行錯誤

相方の友人の方から、ペゼッティのマキネッタをいただいた。

マキネッタは、直火式のエスプレッソメーカー。イタリアではどこの家庭にもたいていあるものらしい。僕自身は自分でコーヒーをいれるようになってたぶん20年くらいになるが、もっぱらペーパードリップだったので、マキネッタではいったいどんなコーヒーをいれられるのか、興味津々だった。

マキネッタの構造はとても単純で、下のタンクに水を入れ、粉受けに細挽きのコーヒーを詰め、上半分をセットして直火にかける。すると、下で沸騰した水がコーヒーの粉を通過し、上半分にコーヒーが抽出されて溜まる。ペーパードリップやネルドリップに比べると、テクニックの類は何も必要ない。

とりあえず使ってみるかー、とほとんど下調べもせずに最初に試した時は、水が多すぎたのと、火加減が強すぎたのとで、ものの見事にコーヒーが噴きこぼれてしまった(苦笑)。調べてみると、水はタンクの横のバルブより下、火加減は弱火で、というのがマキネッタのセオリーらしい。それに従っていれてみると、2回目以降はおおむね良い感じのエスプレッソがいれられるようになった。水の量と粉の量、あとはコーヒー自体のチョイス(深煎りで細挽きがよさそう)で、ある程度の味の調整はできそうだ。

もちろん、高圧の蒸気でいれるエスプレッソマシンとは、クレマの有無など埋められない差があるのだが、マキネッタにはマキネッタの、手軽で素朴な味わいがある気がする。これからも仕事の合間に、楽しみながら使っていこうと思う。

「Sui Dhaaga – Made in India」

タイ取材の行き帰りに機内で観た2本目のインド映画は「Sui Dhaaga – Made in India」。主演はヴァルン・ダワンとアヌシュカー・シャルマー。前から観たいと思っていた作品だったので、願ったり叶ったり。

舞台は北インドのとある地方都市。ミシン店の店員として働くマウジーは、父親譲りの仕立職人としての腕を活かすこともないまま、店でこき使われる日々を送っていた。ある時、店の経営者の親族の結婚式で、マウジーは犬のモノマネをさせられる。その姿を目にしてしまい、悲しみにくれる妻のマムター。マウジーは妻の言葉を聞いて店を辞め、路上での仕立屋稼業を始めるが……。

まず驚いたのが、いい意味で、主演の二人からボリウッドのトップ俳優のオーラをまったく感じなかったこと。ヴァルンはお人好しゆえにうだつの上がらない平凡な男を、アヌシュカーは無口で常に一歩下がった位置にいる控えめな妻を、それぞれ見事に演じている。そんな主人公の二人が、それぞれの秘めた才能——服の仕立とデザインの才能を少しずつ発揮して、いろんなトラブルに直面しながらも、家族や周囲の人々を巻き込んで、「Sui Dhaaga」(針と糸)としての独立開業を目指す。そのプロセスが、本当にほんわかと温かくて、時にはらはらさせられながらも、和んだ気分にさせてくれる。

サブタイトルの「Made in India」は、ある意味、この作品そのものにもあてはまる。インドだからこそ、作ることのできた映画だと思う。

「Gold」

今年のタイ取材で乗ったタイ国際航空の機内で、インド映画を2本観た。1つは「Gold」。フィールド・ホッケーのインド代表チームが、1948年のロンドン・オリンピックで金メダルを獲得するまでの実話に基づく物語だ。監督は「ガリーボーイ」で脚本を担当したリーマ・カーグティー。

ホッケーのインド代表チームは、第二次世界大戦前にも3大会連続で金メダルを獲るほどの強豪だったのだが、その3大会はすべて「英領インド」としての出場。独立国としてのインドが優勝したのは、1948年のロンドン・オリンピックが最初だった。

だが、この金メダル獲得に到るまでの道のりは、けっして平坦なものではなかった。特に、独立時にインドとパキスタンが分裂したことは、当時の社会のみならず、ホッケーのインド代表チームをも、バラバラに引き裂いてしまったのだ。アクシャイ・クマール演じるチームマネージャー、タパン・ダース(これは架空の人物であるらしい)は文字通り東奔西走し、時に私財を投げ打ってまで、代表チームの再建に取り組むのだが……。

手に汗握るスポーツものの映画としては、正直、競技のシーンにそこまでのダイナミズムはなく、演出と編集にもうちょっと頑張ってほしかったとは思う。ただ個人的には、インドとパキスタンに引き裂かれたチームメートたちが、ロンドン・オリンピックで再会するまでの道のりにぐっときた。国の威信と期待を背負わざるをえない代表選手たちが、かつてのチームメートとの友情を持ち続けていたことに。

カシミールをめぐる軋轢で、インドとパキスタンとの間では、再び緊張が高まっている。難しいことは承知の上だが、どうにかして互いに落としどころを見つけて、無辜の民が悲しみを背負わずにすむようになることを願っている。

スマートな旅

約三週間半のタイ取材を終え、今朝、東京に戻ってきた。

今年のタイの旅は、トラブルらしいトラブルもほとんどなく、スムーズに終えることができた。毎年ほぼ同じ地域を定点観測的に回っているので、土地勘もあるし、注意すべきポイントも頭に入っているから、当然と言えば当然なのかもしれない。あと、言わずもがなだが、テクノロジーの進化に助けられてる面も大きいと思う。

インターネットとスマートフォンによって、旅は格段に便利でスマートになった。その日泊まる宿をネットで事前予約しておくのは当たり前で、飛び込みで訪ねたら逆に訝しがられる。道に迷ったら地図アプリ(オフラインでもGPSで現在位置がわかるアプリもある)を見れば、目的地まで最短距離で移動できる。僕はまだ使ってないけど、タクシーも、今やGrabやUberなどのアプリでピンポイントで呼ぶ時代だ。

その一方で、昔からある安宿街は小綺麗なドミトリー主体のホステルに取って代わられ、トゥクトゥクやソンテオはGrabに客をすっかり奪われて、暇を持て余している。そういう時代の流れにはもはや逆らえないのかもしれないし、ノスタルジーに浸るつもりもないのだが……何だろう。何もかもが効率よくスマートに手配できてしまえることに、ちょっと拍子抜けというか、物足りないものを感じてしまう。

自分が二十代の頃からくりかえしてきた旅をふりかえってみても、記憶に強烈に焼き付いているのは、トラブルにさんざん振り回されて苦労した時の旅だ。自分自身で決断し、周囲の人々にも助けてもらいながら、どうにかして苦境を切り抜ける。そういう経験でしか味わえない旅の本質というのは、確かにあると思う。

自ら好き好んでトラブルに飛び込んでいくのは愚かだけど、あらゆるトラブルをスマートにかわしながら効率よく旅をすることに慣れすぎるのも、どうなのかな、と思った。

七年目のおつとめ

明日から約三週間半のタイ取材が始まる。「地球の歩き方タイ」の改訂のための取材なのだが、何だかんだでこの時期にタイに赴くのも、今年で七年目。我ながらよく続いてるなあ、と思う。

取材の回数を重ねるうちに、だいぶ要領もわかってきて、効率化されてきてはいると思うが、それでも突発的な事情で現地であたふたさせられることは、今年もしょっちゅうあるだろう。まあ、そういう時に柔軟に対応することも含めての取材なので、それなりに覚悟はしている。

今年のタイは、どんな感じだろうか。取材しながらも心穏やかに過ごせたら、それが一番いいけれど。

というわけで、七年目のおつとめのため、しばらく留守にします。帰国は10月24日の予定です。では。