「サルカール 1票の革命」


キネカ大森で開催中のインディアン・ムービー・ウィーク2019で2本目に観たのは、ヴィジャイ主演のタミル映画「サルカール 1票の革命」。この作品、以前、エアインディアの機内で英語字幕で観たことがあったのだが、作品の主題がタミル・ナードゥの州議会選挙という少々ややこしいものだったので、日本語字幕でもっと細かい情報を追えればと思い、再度観ることにした。

米国で巨大IT企業のCEOに君臨するスンダルは、故郷タミル・ナードゥの州議会選挙に一票を投じるため、自家用ジェットで一時帰国する。投票所に足を運んだスンダルは、正体不明の何者かが、彼になりすまして投票を終えていたことを知る。投票の権利を勝ち取るために調査に乗り出したスンダルは、選挙で横行する不正の数々と政治家たちの腐敗ぶりを目の当たりにし、自ら行動を起こす決意を固めるのだが……。

日本語字幕であらためて観ると、この作品、タミル・ナードゥ州の実在の地域政党への痛烈な皮肉が随所に織り込まれていたのがよくわかった。映画祭の公式アカウントがモーメントにまとめた現地事情を事前に読んでおくと、さらにわかりやすい。かといって、そういった知識を全部理解していないとダメかというとそんなことはまったくなく、タラパティ・ヴィジャイらしい爽快なアクションと破天荒なストーリーは、深い予備知識なしでも十分に楽しめると思う。

何より、この作品が伝えようとしている「かけがえのない1票を大切に」というメッセージは、タミル・ナードゥやインドだけでなく、今の日本社会にも通じるものだ。どうせ何も変わらないからとあきらめたら、絶対に何も変わらない。何かを変えられるとしたら、それは、一人ひとりの持つ1票以外にない。世の中には1日だけ、政治家ではなく市民一人ひとりが力を持てる日がある。だから投票日には、必ず選挙に行こう、と。

インドではそんなメッセージが、こんなにもアツい娯楽大作映画になるのだった。

「バレーリーのバルフィ」

9月にキネカ大森で開催されているインディアン・ムービー・ウィーク2019。そのラインナップの中に、気になってはいたもののエアインディアの機内では見逃していた「バレーリーのバルフィ」が入っていたので、これ幸いと観に行った。

地方都市バレーリーで暮らすビッティは、父親譲りの男勝りな性格が災いしてか、お見合いをしても失敗続き。家族からのプレッシャーに耐えかねて夜更けに家出した彼女は、駅の売店でたまたま買った「バレーリーのバルフィ」という本の主人公が、なぜか自分にそっくりなことに驚く。その小説は、バレーリーで印刷業を営むチラーグが、失恋の傷を癒すために勢いで書いたものの、元カノに迷惑をかけないために、気弱な友人プリータムの名前を使って出版したものだった。「著者」のプリータムに会うための手がかりを探してチラーグの印刷所を訪れたビッティに、ひと目ぼれしてしまったチラーグ。でも、自分が著者だとは言い出せず……。

この作品はもう、プリータムを演じたラージクマール・ラーオの独壇場だったと言っていい。超がつくほど気弱な性格からの笑っちゃうくらいの豹変ぶりは、彼の演技力がなければ到底表現できなかっただろう。主役のアーユシュマーン・クラーナーの邪悪な演技も笑えたし、ヒロインのクリティ・サーノーンもさばさばした性格のヒロインをバランスよく演じていた(ソーナム・カプールだったらもっと華やかになったかもと思わなくもなかったが)けど、特に後半は、ラジクマの一挙手一投足に目が釘付けだった。

物語自体は、リアリティ云々はともかく、うまい仕掛けだなあと思わせる部分が随所にあって、面白かった。お金のかかった娯楽大作ではないけれど、観終わった後に多幸感に包まれる、インドらしいハートフル・コメディだった。

iPhoneで本を書く

今取り組んでいる本は、今までとは違う(僕的には)新しい方法で書いている。

原稿を書く時、僕はMacのテキストエディタ(Jedit Ω)を使ってきた。で、今回は、テキストエディタをメインで使いつつ、ある程度書き進めたら、同じ原稿をMacのメモアプリにコピーしている。MacのメモアプリはiCloud経由でiPhoneのメモアプリと同期させているので、外出先でも、iPhoneで原稿の内容を読み返すことができる。

もともとは、本の各章のプロットをメモアプリで共有して、外出時などにプロットの検討と調整をiPhoneでやってみたのがきっかけだった。移動時間やちょっとしたスキマの時間、あるいは何かアイデアを思いついた時などに、ちまちまとプロットをブラッシュアップしていけるのは、思っていた以上に便利だった。なので、原稿本体を書き進める時にも、同じ方法を試してみよう、と考えた次第。

ただ、僕の場合、iPhoneでの作業は、基本的にMacで書いた原稿の推敲と、何かアイデアを思いついた時の追記に限定している。iPhoneのメモアプリでゼロから原稿を書き進めることはしないつもりだ。というのも、iPhoneの画面だと、文章の1行あたりの文字数が少なすぎる。ある程度の文字数、単行本と同じ1行43文字くらいはないと、文章の佇まいが違ってきてしまう気がするのだ。ちょっとした長さの文章ならともかく、単行本に収録するような長文をゼロから書くには、僕の場合、iPhoneでは無理があると思う。

とはいえ、スキマの時間も有効活用できるのは、やっぱり便利だ。脳内のスキマを四六時中みっしり原稿で埋め尽くされそうな気がして、ちょっと怖くもあるけれど(苦笑)。

「ガリーボーイ」


10月中旬から日本国内で公開されるインド映画「ガリーボーイ」。インド本国で公開されたのは今年の初め頃だったから、一年経たずに日本にも上陸という、今までにない早さだ。僕は9月末から3週間半ほど取材でタイに行くので、映画館で見るのは帰国してからかなと思っていたのだが、昨日新宿ピカデリーで、ゾーヤー・アクタル監督と脚本家のリーマー・カーグティーを迎えての「ガリーボーイ」ジャパンプレミアが。この機会を逃すまじと、観に行ってきた。

今年の1月から3月までインドにいた時、ホテルの部屋でテレビをつけると、「ガリーボーイ」のMVがものすごいヘビーローテーションで流れていた。僕も帰国直前に、デリーのコンノート・プレイスの映画館でこの映画を観ようかなと考えていた。ただ、この映画の主題はラップである。日本語どころか英語字幕もない状態では、画面の雰囲気だけしか感じ取れないのではと思い直し、結局観なかった。それは正解だったと思う。今回のジャパンプレミアで、藤井美佳さんによる日本語字幕の付いた状態で観て、この映画の魅力は「言葉の力」の強さであることを、あらためて実感した。

主人公ムラドがノートやスマホに書きつけ、マイクを手に叫ぶ言葉は、激烈で、美しく、悲しみと怒りに満ちている。ムンバイのスラムで生まれ育った彼は、理不尽なほどの身分と貧富の格差にがんじがらめにされ、夢を見ることすら許されない。医大生で恋人のサフィナも、生活は豊かだが人生を選ぶ自由を奪われた、籠の中の小鳥だ。彼らは胸の奥に、炎のような怒りを抱えて生きている。終盤のラップバトルの場面で、ムラドが自分の左胸に何度もマイクを叩きつける姿が、その怒りの激しさを象徴していたと思う。

以前から「クローゼット・ラッパー」だったというランヴィール・シンが自身の声で歌ったラップは、完璧を通り越して凄まじいクオリティだった。「ラームとリーラ」「バージーラーオとマスターニー」「パドマーワト」などで彼が演じてきたのとはまったく違う寡黙で控えめな役柄だったが、だからこそラップでの爆発が活きる。強烈に振り切れた性格のサフィナはアーリヤー・バット以外では演じられなかっただろうし、MCシェールやスカイなど、その他の登場人物もきっちり描かれていて、魅力的だった。何より、ムンバイという巨大都市の抱える理不尽な現実そのものが、この作品に圧倒的な説得力をもたらしていたように思う。

「路地裏の少年」たちは、言葉と音楽の力で、呪われた運命を切り拓く。その姿に、勇気に、喝采を送らずにはいられない。

潜る日々

毎日、本の原稿を書き続けている。

進捗としては、まだ全体の2割に届くかどうかというところ。予想していたよりも、はるかに手強い。この密度感の文章を最後まで書き続けるのかと思うと、慄然とさえしてしまう。今の自分でコントロールできるのか。自分自身が納得のいく形にまで仕上げられるのか。妥協に逃げないでいられるのか。不安でしかない。

毎日、暗い水の中に飛び込んで、潜り続けているような感覚だ。無数の言葉が漂う海。記憶の海。心と感情の海。どこまで潜っても、底が見えない。求めているものを掴み取って、水面に浮かび上がることはできるのか。そこまで息は続くのか。

しんどい日々が続く。