「ジッラ 修羅のシマ」

インディアン・ムービー・ウィーク2020・リターンズで3本目に観たのは、「ジッラ 修羅のシマ」。タミル映画界の若大将ヴィジャイと、マラヤーラム映画界の名優モーハンラールが競演するギャング映画だ。

マドゥライを支配するギャングの首領シヴァンは、自分を守るために警官に撃たれて命を落とした手下の子供シャクティを、実の息子以上に愛し、自身の片腕として育て上げた。新たにマドゥライに着任した警視総監を警戒したシヴァンは、警察の内情を察知し骨抜きにするため、シャクティを警官として送り込む策略を企てる。父親の件で警察を忌み嫌いながらも、義理の父親からの頼みを断れず、渋々警官となったシャクティ。だが、その矢先に起こったある事件が、思わぬ方向へとシャクティを導くことになる……。

南インドのマドゥライを舞台としたギャングものと聞いて、血飛沫の舞うゴリッゴリの展開を想像していたのだが、思っていた以上にモーハンラール演じるシヴァンが子煩悩でお茶目で愛嬌すらあって、ヴィジャイ演じるシャクティも義理の父親が好きすぎるので、すんごく濃厚な(義理)親子愛映画になっていた。ただ、その親子愛があってこそ、中盤からこじれていく展開が活きてくるし、真の敵役の出現からのカタルシスあふれるクライマックスに繋がっている。アクションや殺陣のシーンもたっぷりで、ヴィジャイの腕っぷしの強さはいつにも増してチート感がすごい。強すぎ(笑)。

この作品、ダンスシーンも豊富で、中には日本の太秦村とかで撮影されたものもある。ただ、それを含めて全般的に、本編の場面展開とダンスシーンの映像とがかけ離れすぎているものが多くて、観ていてちょっと異物感があった。これはまあ好みの問題だろう。

ともあれ、いい意味でのお約束満載で、観終えた後にヒャッハーな気分になれる、タミル映画の正統派娯楽大作であることは間違いない。おすすめ。

「ムンナー・マイケル」


インディアン・ムービー・ウィーク2020・リターンズで観た2本目の映画は、「ムンナー・マイケル」。これも昨年の上映時に見逃していた作品だ。主演はタイガー・シュロフ。脇を固める重要な役どころに、ナワーズッディーン・シッディーキー。

ムンバイの雨降る街角で、しがないバックダンサーに拾われて育てられたムンナー。義父の影響でマイケル・ジャクソンを敬愛する彼は、ダンスで彼のようなスターになる日を夢見ながらも、クラブでの賭けダンスで日銭を稼ぐ日々を過ごしていた。ムンバイのクラブというクラブを荒らして出禁にされてしまったムンナーは、稼ぎ場所をデリーに移すが、その一帯を仕切るギャングのボス、マヘンドラに目をつけられてしまう。しかし、マヘンドラがムンナーに要求したのは、30日間で自分にダンスをマスターさせてほしい、という依頼だった……。

この作品、今のボリウッドでは随一の身体能力を誇るタイガー・シュロフを主役として当て書きしたのに間違いない。今風のボリウッド映画の(良くも悪くも)ベタでダンサブルな楽曲が随所に散りばめられていて、ダンスシーンの映像も華やか。冒頭の導入部の長回し的なくだりも素直に気分がアガる感じ。ただ、物語の組み立ては予想よりかなりあっさりしていて、もうひと工夫、ふた工夫はできたんじゃないかと思う(ムンナーとマヘンドラの仇敵になるような真の悪役一味を用意するとか)。ダンスはともかくバトルでも、最初から最後までムンナーが(お約束とはいえ)チートすぎたのも、少々スリルに欠けた。ヒロインのニッディ・アゲルワールは今作がデビュー作だったらしいのだが、さすがに演技もダンスも固い印象だった。

そんな中でこの作品のバランスを保っていたのは、マヘンドラを演じたナワーズ兄貴の力の抜けたコミカルな演技だったと思う。この人は、どんな役をやらせても上手い。マヘンドラが特訓の成果を見せるダンスシーンは、顔の映らないカットを多用して(バレバレだけど)ごまかしてたけど(笑)。

本当の意味での悪人はほぼ誰もいない、平和なボリウッド・ミュージカル映画をのほほんと楽しみたいなら、悪くない作品じゃないかと思う。

「ラーンジャナー」


キネカ大森などで開催中のインディアン・ムービー・ウィーク2020・リターンズ。そのラインナップの中に、今まで何度か日本で上映されていながら、タイミングが合わなくて見逃していた「ラーンジャナー」が入っていた。主演はダヌシュ、ヒロインはソーナム・カプール。悲恋物語とかそんな生易しい言葉で説明できるものではなく、観終えた後は辺り一面焼け野原みたいな気分になる、という噂は聞いていたので、それなりに覚悟を決めて、観に行った。

バラナシで代々暮らすタミル系バラモンの家に生まれたクンダンは、子供の頃に一目惚れした少女、ゾーヤーにずっと恋焦がれていた。イスラーム教徒の大学教授を父に持つゾーヤーは、意を決して言い寄ってきたクンダンを、彼がヒンドゥー教徒だからという理由で拒絶する。想いを募らせたクンダンは、彼女の目の前で手首を剃刀で切るという衝動的な行動に出るが、結果的にその事件が原因で、ゾーヤーは、バラナシから遠く離れたアリーガルの親戚のもとに送られてしまう。それから8年の歳月が過ぎ、ようやくバラナシに帰省することになったゾーヤー。クンダンは喜び勇んで彼女を駅まで迎えに行くが、ゾーヤーはクンダンのことをすっかり忘れていた。父親によって望まないお見合いをさせられたゾーヤーは、クンダンに縁談をぶち壊してくれるように相談する。どうにか破談にさせることに成功したクンダンだったが、デリーのJNUに入学したゾーヤーには、学生運動のリーダーとして活躍する恋人がいると知って……。

一方的な愛は、人を愚かにする。望まない愛は、人を冷酷にする。恋人を愛するゾーヤーは、クンダンをぞんざいに扱い、都合よく利用しさえする。クンダンもまた、自身に想いを寄せる幼なじみのビンディヤーのことは眼中になく、ぞんざいに扱って利用する。クンダンとゾーヤーの行動原理は、それぞれ別の方向にあまりにも振り切れ過ぎてしまっていて、理解も共感もできないという人は多いかもしれない。ただ僕は、程度の差こそあれ、人間は誰しも、破滅的なまでに愚かで一途なクンダンや、自信家のくせに他者に依存しないではいられないゾーヤーのような性質を持っているように思う。実際に、記憶の中に思い当たる人物もいる(苦笑)。

面白かった、とか、感動した、とか、そういう言葉はあまりしっくりこない作品だ。いい映画、なのかどうかも、正直わからない。ただ、観終えた後、映画館を出る時に、「観てよかった」と、僕は素直に思った。もし、機会があるなら、観ておいてほしい。忘れられない作品になると思う。

ポトフを煮る


寒くなってきたので、昨日の夜は、ポトフを作った。

西荻窪のソーセージハウスもぐもぐで、ポトフ向きのソーセージを2本ずつ2種類と、厚切りのベーコンを1枚調達。野菜はキャベツ、タマネギ、ニンジン、ジャガイモ。野菜とベーコンをそれぞれ切って、丁寧に鍋に詰める。茅乃舎の野菜だしパックで作ったコンソメ1カップを鍋に入れ、蓋をして煮立たせてから、弱火で20分。蓋を開けて中の様子を確認し、ソーセージを上にのせ、さらに20分(最初からソーセージを入れて煮込むと、たいてい皮がはじけてしまう)。野菜が煮崩れないように、ごく弱火で、ほどほどの時間煮ると、きれいに仕上がる。

昨日は日中にちょっといらっとする出来事があったのだが、良い食材を使って、確実においしく作れるレシピで、きれいに料理を仕上げて盛り付けて、それを一気にきれいにたいらげると、ストレスが吹っ飛んで、ものすごくすっきりした。料理というのは、こういう役立ち方もあるのだなあ、と思う。

「百発百中 Ghlli」


インド大映画祭のリベンジ上映で、「百発百中 Ghlli」を観た。2004年に公開されたヒット作で、主演はヴィジャイ、ヒロインはトリシャー。

警官の父の目を盗んで仲間とのカバディに熱中する青年ヴェールは、試合に出場するためにこっそりマドゥライの街を訪れる。そこでは、地元で横暴を極めるムットゥパンディが、美しい少女ダナラクシュミに強引に求婚し、彼女の兄二人を殺した上で、彼女を我がものにしようとしていた。ヴェールはダナラクシュミをかくまいながら、彼女を米国の親類のもとへ逃れさせようとするのだが……。

物語としてはものすごくシンプルで、ひねりもトリックも伏線もサイドストーリーもないまま、ぐいぐいまっすぐに進んで、予想通りのエンディングを迎える。その後のヴィジャイの作品に比べると、カバディやアクションシーンの迫力は少し物足りないし、明らかに合成とわかってしまう拙いカットもある。ヴェールと家族とのコミカルなやりとりは、インドのコメディドラマのノリを知らないと戸惑うかもしれない。ヒロインのダナラクシュミの描かれ方も、さすがにちょっと受け身すぎるのでは、と感じる人もいるだろう。何しろ16年前の作品なので、そうした古さを感じてしまうのも致し方ないのかもしれない。

それでもまあ、この作品、面白いのである。これぞタミルの娯楽映画、という感じで、頭を完全にカラッポにして楽しむことができた。こんな風に楽しめる映画が、少なくとも僕には、時々必要なのだと思う。