季節の狭間で

昨日依頼された添削の作業を進める。手直しを始めたらきりがないが、文章の書き方には唯一の正解があるわけではないし、ほどほどにやっていくことにする。

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今日は、いくつかの小さなことに、季節の狭間のようなものを感じた。

昨日までは部屋のフローリングの床を裸足で歩き回っていたのに、今日は「何か冷たいな」と思ってスリッパを履くようになったとか。夕方、買い物をしに外に出た時、スウェット一枚だと風が冷たくて、ぶるっと身を震わせたとか。近所の公園のイチョウの大木の下を通りがかると、ギンナンの匂いがぷんと立ち込めていたとか‥‥。

そういえば、窓の外で鳴いている秋虫の声も、ずいぶんか細くなった。ホットミルクでも飲むか。

人に教える

昼、リトスタでランチミーティング。以前ちらっと書いた、講師のような仕事の件で、先方の担当者さんが遠路はるばる訪ねてきてくれたのだ。からりと揚がった海老フライをいただきつつ、話を伺う。

仕事の内容をざっくり説明すると、ある地方自治体が設けているプログラムに参加している一般の方々が書いたレポート記事を添削し、どこをどうすればよりよい文章になるか、ミーティングの場で教えるというもの。うーん、僕に務まるのかな‥‥? 今の自分の書き方は、場数を踏む中で感覚的に覚えてきたことで、誰かから教わったことはほとんどないし‥‥。

僕の両親はどちらも高校の教師で、妹も高校教師になり、高校教師の旦那さんと結婚した。親戚たちの職業も高校教師ばかりで、要するに、教師一族のようなものだ。だから僕は(天の邪鬼だからというのもあるが)教師という職業に対してアレルギーのようなものを感じていて、大学でも頑として教職課程を取らなかった。そんな僕が、めぐりめぐって人に文章の書き方を教えるというのだから、不思議なものだ。逃れられぬ宿命というところか。

「とりあえず、ブログを毎日書いてみましょう」とでも教えてみるかな(笑)。

ポール・オースター「オラクル・ナイト」

長編小説の醍醐味は、物語のめくるめく奔流に身を任せ、時を忘れて読み耽ることにあると思う。僕がこれまでに読んだポール・オースターの小説——「ガラスの街」をはじめとするニューヨーク三部作や「リヴァイアサン」「ミスター・ヴァーティゴ」「幻影の書」といった作品群は、僕を心ゆくまで耽溺させてくれた。ところが、先日発売された「オラクル・ナイト」は、それらとはちょっと趣向の違う作品だった。

主人公シドニー・オアの職業は、やっぱりというか、またしてもというか、作家だ。彼が奇妙な文具店で見つけた青いノートに文章を書きはじめることで、いくつもの物語が動き出す。シドニーと妻のグレースと友人のジョン・トラウズとをめぐる物語。青いノートに綴られた、それまでの人生を捨てて行方をくらました男と、電話帳の図書館をめぐる物語。その物語の中で主人公に渡される、ある作家が遺した小説「オラクル・ナイト」。タイムトラベルをテーマにしてシドニーが書いた映画の脚本。ジョンが若い頃に書いた短篇「骨の帝国」——。こうした「物語の中の物語」を組み込むのはオースターが得意とするところだが、この本ではそれがさらに多層化していて、途中に注釈の形で何度も挿入される補足エピソードとあいまって、複雑な入れ子構造になっている。

そしてこれらのエピソードの大半は、意図的に結末を迎えることなく途切れてしまう。文具店の店主M・R・チャンの正体も、ポルトガル製の青いノートの謎も、答えを与えられない。シドニーとグレースを襲った一連の悲劇から現在へ至るまでの道程すら、途中でふっつりと途絶えてしまう。言葉は過去の出来事を記録するだけでなく、未来の出来事を引き起こす力も持っている。オースターはそのことを伝えたいがために、このように手の込んだ構成を選んだのかもしれない。それでいて全体が破綻することなくまとめあげられているのは、彼の技量があればこそだろう。

だが、正直に言うと、ちょっと読みづらかった。流れに引き込まれかけたところで、長い注釈でばっさりと寸断されたり、エピソードが途切れてしまったりするので、いいところで足元の梯子をポンと外されてしまうような違和感をたびたび味わうことになった。読者をグイグイ引き込む物語性という点では、この作品は弱いと思う。あと、シドニーとグレースとジョンをめぐるエピソードが、かなり序盤の段階から結末が透けて見えてしまっていて、終盤の展開が予想の範囲内だったことも、拍子抜けした要因かもしれない。そういったことも含めてオースターの計算のうちだったとすれば、それはそれでたいしたものだが。

次に邦訳される作品は、心ゆくまで物語に耽溺できるような、長編小説ならではの醍醐味を味わえるものだったらいいな、と思う。

三人目の子供

昼、リトスタでランチを食べながら、相談事を受ける。相手は、以前創刊に関わった雑誌の編集部に在籍していた女性で、後輩といえば後輩にあたる。今では結婚して二児の母となったが、その一方で、フリーランスでの編集の仕事も続けている。

相談の内容は、彼女がこれから作りたいと思っている本の企画について。どの版元に、どのような形で持ち込めば、出版にまでこぎ着けることができるか? 正直、僕には偉そうにアドバイスできるほどの経験も実力もないのだが、自分が本を出した時の経緯などをかいつまんで説明した。

「‥‥どうせこの仕事をしているのなら、自分が本当に作りたいと思える本を作りたくて!」

彼女とはずいぶん長い付き合いになるが、今日ほど目をきらきらと輝かせて、楽しそうに自分の企画の話をしていたのを見たのは初めてかもしれない。自分が本当に作りたいと思える本を作る。僕たちの仕事は、それが始まりであり、すべてでもある。ともすれば、ルーティンワークをこなすことに汲々としてしまいがちなこの業界で、かつての仲間がそんなみずみずしい気持で本作りに取り組もうとしているのを見るのは、僕としてもうれしかった。

彼女の思いが結実した本ができあがった時、きっとそれは、彼女にとって三人目の子供といっていいほどの、かけがえのない存在になると思う。

神様の気まぐれ

先週から素材が届くのを待っていた案件は、クライアントの気まぐれで、結局、執筆作業自体が発生しないことになってしまった。ほとんど手を動かしてなかったのは不幸中の幸いだったけど、20万円かそこら損した気分(苦笑)。

そんなわけで、日がな一日、ぼんやりと過ごす。夕方頃にスーパーに買い物に出かけ、豚肉とチンゲンサイのコンソメミルクスープを作る。飲み会の翌日は、温かいスープがはらわたにしみる。ソファにもたれ、本の続きを読む。

こんな穏やかな時間を過ごしていると、ほんの二カ月ちょっと前、カルナクの山の中を死にそうな目に遭いながら彷徨い歩いていたのが、嘘のように思えてくる。標高五千メートルの場所で幕営中に雹混じりの雷雨に見舞われたり、ぬかるんで崩れそうな崖の斜面にしがみついたり、猛り狂う濁流の中を、腰まで浸かりながら馬とともに渡渉したり‥‥。圧倒的な自然の力の前に、僕はあまりにも無力だった。

あの洪水の時、カルナクよりももっと易しいはずのトレッキングルートで、何人ものトレッカーが命を落とした。もしあの時、雹がテントの天幕を突き破っていたら? もし、しがみついていた崖で土砂崩れが起こっていたら? もし、濁流の中で足を滑らせて流されてしまっていたら‥‥?

神様の些細な気まぐれで、僕は、たまたま生き残っただけなのだと思う。