祈りと元気と

昼、電車に乗って護国寺へ。来日中のダライ・ラマ法王による東日本大震災の四十九日法要に参加する。

セキュリティチェックを終えて階段を上ると、本堂の前の広い境内は、三千人もの人々でぎっしりと埋まっていた。四基の大型スクリーンに、法王のご様子が映し出される。読経の声を聞きながら、家から持ってきた数珠を手にかけ、しばらくの間、じっと手を合わせて、震災で亡くなった方々や、被災地で不自由な暮らしを余儀なくされている方々のことを想った。

僕が祈ったからといって、苦しんでいる方々が救われるわけではないけれど、自分自身の心に祈りを刻むことで、何か変わるものがあるかもしれない。こういう機会に立ち会うことができて、よかったと思う。

夕方、新宿に移動して、新宿眼科画廊で今日から始まるたかしまてつをさんの個展のオープニングパーティーに行く。たかしまさんの作品は以前からいろんな場所で何度か拝見してきたけど、今回の展示は圧巻。白い壁一面にびっしり貼られているのは、キャンバスやダンボール、手帳のページ、レシート、文庫本のカバーなど、ありとあらゆるものに描かれた絵たち。奥の小部屋には、四枚のふすまにどーんと描かれた、文字通りのふすま絵もあるのだ。

パーティーの間も壁のあちこちをずっと眺めて回っていたのだが、見ていて感じたのは、たかしまさんは本当に、骨の髄まで絵を描くことが好きな人なのだなあ、ということ。見る人に元気を与えられる絵というのはすごいと思う。

祈りと元気とで、心が少し軽くなったような気がした。

男の料理の破綻

終日、部屋で仕事。今日もじわじわと前進、したような気がする。

夕方、冷蔵庫の中にあるありあわせのもので、晩飯を作ることにした。賞味期限切れ寸前の納豆とキムチは混ぜて一品にして、さて、メインは‥‥これも賞味期限切れ寸前の卵と、ソーセージと、そろそろヤバめのキャベツ。というわけで、キャベツとソーセージと卵の炒め物を作ることにした。

似たような料理は以前から何度も作っているから、いつものように作業を進める。キャベツが中途半端に多すぎるような気もしたが‥‥ま、いいや、と、どーんとフライパンに投入。ところがやっぱり多すぎて、調理ベラでうまく混ざらない。しばらくふたをして蒸し焼きにしてみたものの、なかなかしんなりとはならず。結局、部分的に焦げたりしてしまって、はなはだまずい結果になってしまった。

男の料理での「ま、いいや」は危険だ(苦笑)。

「黒子」からの一歩

終日、部屋で仕事。はかどっているとはいえないが、それでも、少しずつ前には進んでいる、と思いたい‥‥。

一昨日、昨日と書いてきた、仕事にまつわる断想の続き。

僕は雑誌の編集者としてキャリアを始め、やがて、自分でもライターとして、いくつかの雑誌で記事を書くようになった。そうした記事のほとんどは、取材やインタビューを基にしたもの。僕は、取材する題材や人々の魅力を最大限に引き出す「黒子」としての役割に徹していた。それは、編集者の頃からのスタンスの延長線上にあったのだとも思うし、そのことに対して一種の職人的な喜びを感じてもいた。

ただ、キャリアを重ねていくうちに、僕の中には、もやもやした感情が次第に蓄積されていった。燦然と輝きを放つ魅力的な人にインタビューをして記事を書いたとしても、それは結局、その人の魅力に頼って、おすそわけをもらっているだけなのではないか。僕自身の中にある思いは、何も伝えられていないのではないか、と。

「黒子」に徹した職人的なライターは(たぶん)常に必要とされているし、僕自身、今もそういう立場での仕事を続けている。そうしなければ、正直、食っていけない(苦笑)。でも、そんな「黒子」としての立場から一歩踏み出して、完全に自分自身を晒して「ラダックの風息」を書いた時、僕の中にあったもやもやした感情は消えてなくなった。たとえ非力でも、自分自身の思いと言葉で勝負する。それが読者に届いた時の喜びは、「黒子」に徹していた時とは比べものにならなかった。

これからずっとそういう仕事を積み重ねていければ理想的だけど、世の中、そんなには甘くない(苦笑)。でも、自分が伝えたいことは何なのか、それは自分にとって何なのか、常に自問自答しながら、心の中にある目標を忘れずにやっていければ、と思う。

「黒子」としての編集者

終日、部屋で仕事。電話での長時間の打ち合わせを何件かしているうちに、声がちょっと枯れた(苦笑)。今日はあまり作業時間が取れなかったな‥‥。

昨日、「編集者の資質」というエントリーを書いたら、知人の(誰もが認める優秀な)編集者さんから、「編集者の資質って、自分が面白いと信じたことに人を巻き込むことですかね」というツイートをいただいた。

確かに、それは的を射ている。著者、フォトグラファー、イラストレーター、デザイナーなど、本作りに関わるあらゆる業種の人たちを巻き込んで、自分が信じたゴールに向かって突き進んでいく。それをやり遂げる情熱がなければ、本当の意味での編集者の仕事はできないだろう。

ただ、そうして本なり雑誌なりを作り上げても、それはその編集者の「作品」ではない。何かを生み出したのは著者をはじめとするクリエイティブな職種のスタッフで、編集者の役割は、基本的には「黒子」なのだ。中にはその範疇を飛び越えて著者よりも前面に出てくる編集者もいるが、その是非はともかく、個人的には、いかに「黒子」に徹して他のスタッフに活き活きと動いてもらえるように努力するかが、編集者の仕事のキモなのではないかと思う。

で、編集者としての自分にそれができているかというと‥‥できてないなあ‥‥(遠い目)。

編集者の資質

終日、部屋で仕事。本の編集作業も、いよいよ本格的に忙しくなってきた。

編集の仕事を志してから、かれこれ二十年近くになる。地味で、単調で、せわしない作業のくりかえしだけど、何もないところから人の心を動かすものを作り出していくこの仕事が、僕はとても気に入っている。

ただ、自分が編集者としての資質を持ち合わせているかというと‥‥どうかな、と思う。

僕の知人には、周囲の誰もが認める優秀な編集者の方々が、何人もいる。その方々の仕事ぶりを見ていると、卓越したセンスとか、細部へのこだわりとか、疲れを知らない体力とか(苦笑)、そういった能力よりも、編集者にとって一番大切な資質は、周囲の人々とのコミュニケーション能力なのだと、つくづく思い知らされる。人間的に慕われている編集者さんは、間違いなくいい仕事を積み重ねている。

その点では、自分は本当に未熟だし、たとえば雑誌の編集長のように、大勢の人を取りまとめてチームとして動かしていく役割にはまったく向いてないと思う。どちらかというと「使う」よりも「使われる」立場の方がしっくりくるし、あるいは自分でできることはなるべく自分でやってしまう——企画・執筆・撮影・編集といったあたり——方が、力を発揮できるような気もする。

まあ、自分勝手なんだな、要するに(苦笑)。