夜の歌声

うちのマンションがある住宅街はかなり静かなところで、僕の部屋が生け垣越しに面している細い通りは、自動車もほとんど通らない。近くにある幼稚園の通学路だからというのもあるだろう。

だから、夜になるとしーんと静まり返ってしまうのだが、そんな中、ほとんど毎晩のように、一人か二人、大声で歌を歌いながら自転車か何かで通り過ぎていく人たちがいる。若い男や女が多いが、たまにおじさんもいたり。お酒を飲んでご機嫌なのか、寒さを紛らすためなのか、何かすごくいいことか、あるいはすごく嫌なことがあったのか。

正体も理由も定かではないけれど、歌声だけはびっくりするくらいよく響くので、そのたびに笑ってしまう。あのー、聞こえてますよー。

それでも、がんばる

午後、八丁堀で打ち合わせ。先日、出版が承認された新しい書籍についての打ち合わせ。

意気揚々と乗り込んだ僕の出鼻は、ものの見事に砕かれた。本の制作に割り当てられた予算が、思っていた以上に少ない。自分の取り分が少なくなるのはもともと覚悟していたが、今回はかなり大勢の方に協力してもらって中身を作っていく本なので、その方々や制作に関わるスタッフにお支払いする報酬が、本当に申し訳ない金額になってしまう。紙に印刷されたその無機質な数字を見て、顔から血の気が引いたのが自分でもわかるほど、がっくりきた。

この設定では、何人もの人に断られても仕方ないかもしれない。あれほど作りたいと思い続けてきた本が、描いていたイメージとかけ離れたものになってしまうかもしれない‥‥。

打ち合わせの席上、まずはデザインをお願いしようと考えていたデザイナーさんに、電話で連絡を取ることになった。正直、ちょっと怖かった。金額を伝えたら、スピーカーの向こうから落胆した声が聞こえてくるのではないかと思ったからだ。でも、ひさしぶりに電話でお話ししたその方は、間髪入れずに明るい声でこう言ってくれたのだ。

「ヤマタカさんの本なら、いくらであってもやりますよ!」

本当に、心の底から、ありがたいなあ、と思った。やるしかない、とも思った。きつい道程なのは、百も承知。それでも、がんばる。いい本を作る。そうすることでしか、僕には返せるものがない。

「旅人は夢を奏でる」

「旅人は夢を奏でる」

ミカ・カウリスマキ監督によるフィンランドを舞台にしたロード・ムービーと聞くと、何だかそわそわして、観ておかなければ、という気になってしまう。「旅人は夢を奏でる」は、その期待を裏切らない佳作だった。

主人公のティモは、フィンランドで成功を収めたピアニスト。でも、その生真面目すぎる性格に耐えられなくなった妻は、幼い娘を連れて実家に戻ってしまった。そんなティモの前に、三歳の時に別れて以来音信不通だった父、レオが現れる。やることなすこと破天荒なレオがどこからか用意してきた車で、なぜか旅に出ることになってしまったティモ。その行く先には、彼の知らない秘密が数多く待ち受けていた‥‥。

「ここはこうなるのかな」という想像を常にちょっとずつ裏切っていく展開が続く、ユーモアと温もりと、そして一抹の寂しさが漂う映画。レオ役のヴェサ・マッティ・ロイリはフィンランドの名優でありミュージシャンでもある人だそうで、ティモ役のサムリ・エデルマンも著名なミュージシャン。映画の中で二人が歌と演奏を聴かせるシーンは、二人の関係が大きく変わるきっかけにもなった印象的な場面で、思わず拍手を贈りたくなった。

離ればなれに生きてきた息子に対する父の思いは、最後の最後に、何を変えたのだろうか。

マニアックな宴

昨日の夜は、綱島の旅カフェ、POINT WEATHERで飲み会。開催中のインドをテーマにしたグループ写真展に来月前半に出展するので、その写真の納品なども兼ねて。

この店の楽しみの一つは、他ではあまりお目にかかれないような、世界各国のマニアックなビールが飲めること。ちなみに昨日飲んだのは、人魚の絵がラベルにあしらわれたイディオットIPA、シャープなラベルデザインのヴェデット、修道院で作られているシメイ。ナシゴレンを食べつつこういうビールを飲むのも、なかなかいいものだ。

ビールだけでなく、飲みながらの話の内容も相当にマニアックなことになり、お店の人はタマネギを刻みながらそれを聞いてニヤニヤしていたらしい(笑)。マニアックな宴、満喫。

スタートライン

午後、出版社の編集者さんからメール。今日開催された新刊会議で、僕が企画・編集する、新しい本の出版が承認されたとのこと。

この企画、一年前に打診して以来、長い時間を経て、去年12月にようやく実務者レベルの会議にかけられたものの、コンセプトがうまく伝わらずに再提出というがけっぷちの状態に。年末の会議で二度目の提出をしてどうにか踏みとどまり、今日の新刊会議で正式なゴーサインが出たという次第。

知らせを聞いた時、うれしかったというより、ただただ、ほっとした。この一年、ずっと胸の中につかえていた重苦しいものが、ようやく半分だけすとんと抜け落ちたというか。

僕の仕事は、本を出すこと自体が目標なのではない。書店でその本を手に取って買ってくれた人が「買ってよかった」と少しでも思ってくれるように、細かいところまで徹底的に心を砕いて、いいと思える本を作り、それを届ける。その最後の最後に行き着くところまでをイメージして、それを実現しなければ意味がないと思っている。

今はまだ、スタートラインに立っただけだ。