気を抜けない

午前中に、デザイナーさんから今作ってる本の色校正が入った大きな包みが届く。リビングの机の上で、面付けされた状態の大きな色校を広げ、各写真家さんから送られてきた指示を参考に、写真を一枚々々チェックしていく。

今回の「撮り・旅! 地球を撮り歩く旅人たち」は、ほとんどのページに写真が使われていて、それぞれのテイストも千差万別なので、印刷にはことのほか気を遣う。本当はもう一回ダメ押しで簡易色校正を出したいところなのだが、諸事情(時間とか、予算とか)で難しいと言われてしまったので、デザイナーさんと一緒に印刷所に行って、最後の最後に印刷の現場で確認させてもらうしかないかな、と考えている。

ここで気を抜いたら、今までの苦労がすべて水の泡になってしまう。少しでもいい本を作るために、やらねば。

優先席

午後、向ケ丘遊園近辺で取材。空はどんよりと曇っていて、行き帰りに昨日みたいなとんでもない雷雨に降られやしないかとヒヤヒヤしたが、どうにか持ちこたえてくれて、ほっとする。

帰り道、下北沢から井の頭線の各駅停車に乗り換え。車内は割と混んでいたが、たまたま目の前の席が空いて、すぐに坐れた。

永福町のあたりで、白髪の老夫婦が乗ってきた。車内をきょろきょろと見回しているので、優先席も塞がっているのだな、と立ち上がって席を譲った。ドア付近で壁に寄りかかろうと移動した時、その反対側にある優先席を見て、驚いた。塞がってるのは塞がってるのだが、年配の人はたった一人だけ。あとはみんな、二十代かそこらの若い人たちばかりだったのだ。

そもそも、そんな若い人たちが優先席を占拠してるのにもびっくりだし、年配の人たちが乗ってきても、みんな席を譲る気配すら見せないのにもびっくりした。以前にも一度、井の頭線で意図的に席を譲ろうとしない人を見かけたけど、今回はさらにひどい。どうなってるの、井の頭線?

何というか、同じ東京に住む人間として、心底恥ずかしいよ、ほんと。

「マダム・イン・ニューヨーク」

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昨日はシネスイッチ銀座で公開初日を迎えた「マダム・イン・ニューヨーク」を観に行った。あいにくの雨にもかかわらず、午後半ばからの回はほぼ満席。上映中は笑いさざめく声と涙ぐむ気配が広がり、終了後には拍手も涌き起こった。

主人公のシャシは、インドの良妻賢母を絵に描いたような、穏やかで賢く、美しい女性。ただ彼女には、義母を除く家族の中で一人だけ英語が苦手というコンプレックスがある。家庭を守るための彼女の日々の努力にも関わらず、夫からはことあるごとに軽く扱われたり、娘からも傷つく言葉を浴びせられたりして、密かに悩み続けていた。

そんなある日、ニューヨークに暮らす妹のマヌから姪の結婚式の準備を手伝ってほしいと頼まれたシャシは、家族よりも一足先に、五週間の予定で単身ニューヨークに旅立つことになる。初めての異国の地でおっかなびっくりのシャシは、案の定、英語ができないことでひどく打ちひしがれた思いを味わうはめに。そんな彼女の目に飛び込んできたのは、バスの車体に貼られた「四週間で英語が話せる」という英会話教室の広告だった‥‥。

女性の尊厳と自立とか、家族との関係とか、この映画が発しているメッセージはいくつもあるけれど、とりわけ強く印象に残ったのは、「言葉」というテーマだった。インドという国では、英国に占領されていた頃の名残で、英語は準公用語として比較的よく通じる。映画やテレビを見ていると、びっくりするくらいヒンディー語と英語がちゃんぽんで使われていたりする。英語を使うとちょっとカッコイイ、今風でイケてるみたいなイメージも、たぶんあの国の中ではあるのだろう。でもこの「マダム・イン・ニューヨーク」では、英語を流暢に話せる人たちすべてが礼賛されているわけではなく、むしろチクッと刺すような描写もある。「英語が話せるかどうかで人としての価値が決まるものなの?」と。

言葉は、人と人とが思いを伝え合うために欠かせない手段だが、言葉が何の問題もなく通じ合うからといって、心も通じ合っているとはかぎらない。英会話教室に集まった生徒たちは、国も人種も母国語もバラバラで、英語も初めはおぼつかないけれど、心は不思議なくらい通い合い、かけがえのない絆を育んでいく。時には感情に任せて相手にわからない言葉で語りかけてさえ、伝わっていく思いもある。言葉はあくまで手段の一つでしかなくて、大切なのは、思いをどうにかして伝えようとすることなのだと。

小さな勇気を積み重ねれば、人は自分を変えられる。自分の人生を取り戻すことができる。観終わった後、素直にそう思わせてくれる、清々しい風が吹き抜けるような作品だった。

「バルフィ! 人生に唄えば」

barfi

この映画と最初に出会ったのは、インドへと向かう飛行機の中。ランビール・カプール主演なのか、とセレクトして観始めたのだが、英語字幕がなかったので冒頭の時間軸の入り組んだ設定が理解できず、その後も時間切れで、最後まで観れずじまい。それでもこの「バルフィ! 人生に唄えば」のことは不思議なくらいよく憶えていて、今回、日本での公開に先立ってマスコミ試写会に呼んでいただいた時、この作品との縁を感じずにはいられなかった。

生まれた時から耳が聞こえず、話もできないバルフィは、表情と身ぶり手ぶりだけで人々に思いを伝える、陽気で穏やかな心の持ち主。彼の暮らすダージリンの街にやってきたシュルティは、資産家の婚約者がいる身ながら、正反対の魅力を持つバルフィに惹かれていく。そしてもう一人、地元の有力者の娘でありながら、自閉症だったために親から疎まれて施設で育ったジルミルも、幼なじみのバルフィに心を開いていく。ダージリンで、カルカッタで、時に思いがけない事件に巻き込まれながら、出会いと別れをくりかえす三人の行末は‥‥。

ランビール・カプールが演じた主人公バルフィと、プリヤンカー・チョープラーが演じたジルミルには、作中を通じて台詞らしい台詞はほとんどない。でも、そんなことはまるで気にならないほど、二人のあふれる思いは画面からずんずん伝わってくる。特にプリヤンカーなんて、ミス・ワールドに選ばれるほどの絶世の美女なのに、この作品を観た後だと、他でどんなにきれいどころの役を演じてたとしても、もはやジルミル以外には見えない(笑)。それくらいの名演だ。サイレント時代を含む古き佳き映画を彷彿とさせる演出も、彼らの演技をぐっと後押ししている。舞台となったダージリンとカルカッタ(という名前だった頃の話)をはじめとする情景もじんわり沁みる。

生まれついての無垢な心のままに生きるバルフィと、彼を一途に信じて追いかけるジルミル。すべてを捨てることを怖れて、一度は自分自身の心に背いてしまうシュルティ。心のままに従って素直に生きることは、誰にとっても難しい。それをいともたやすく、まるで当たり前のように、軽やかに歩んでいくバルフィには、かなわないな、と思ってしまう。

ある意味、とても映画らしい、素直な映画。150分間、どっぷり浸って、存分に楽しめると思う。

お鉢が回る

午後、南大沢で取材。大学案件では三、四週間ぶりくらい。

六月に入ってから今回までの間にも何件か取材はあったそうなのだが、それには依頼元が新しく契約したライターさんを起用していたそうだ。今日は最先端系のややこしめのテーマの取材だったので、僕にお鉢が回ってきたらしい。いや、何度も言うけど、僕もコテコテの文系なのだが(苦笑)。

苦労しつつもどうにか原稿四本分の取材を終え、片道一時間の電車に揺られて帰路につく。吉祥寺で降りて、リトルスパイスでアジアンレッドカレー。辛味で火照った首筋に、夕方の風が気持いい。

夏至を過ぎて、一年も折り返し。あっという間だな。