みんなで食べると

昨日の夜はひさしぶりに、荻窪の潮州へ。総勢六名という、団体行動が苦手な僕としては(苦笑)割と珍しい大きめの宴会だったのだが、みなさんとても気さくで、なごやかな宴になった。

潮州のような中華料理店では、人数が多いと、普通では無理な品数の料理をあれこれちょこちょこ食べられるので、いつになく満足度が高かった。一人や少人数で気楽に食べるごはんのよさもあるけれど、みんなで食べるからこそ楽しめるごはんのよさもある。中華料理とかは特にそうだし、タイ料理も屋台系のもの以外は割とそうだと思う。

いや〜、それにしても、ほんとにうまかったなあ‥‥。あまりにうますぎたからなのか、今日は別に胃もたれとかまったくしてないのに、あんまり食欲がなかった(笑)。

風景を撮るのも、人を撮るのも

「旅先で人の写真を撮る時は、どんな風にして撮ってるんですか?」という質問をされることが、割とよくある。人の写真がどうもうまく撮れない、何かいい方法があるのではないか、と思っている人が多いらしいのだ。

僕も写真で駆け出しの頃は(まあ今も駆け出しみたいなものだけど)、人を撮る時には、それ以外と何か違うアプローチがあるのでは、と手探りしていた時期があった。でも最近は、風景を撮るのも、人を撮るのも、自分にとっては同じことだな、と思うようになった。

こう書くと、「風景はその場にいれば誰でも同じように撮れるから、人を撮る方が難しくて技術が必要なのに決まってる」とか、あるいは「人を風景と同じようにモノ扱いして撮っているのか」と受け止める人もいるかもしれない。でも、僕にとっては、どちらもそうではない。人を撮るのに使う技術と同じくらい、風景を撮るのにもいろんな技術が必要になる(僕はそれらのごく一部しか使えていない)。そして僕は、特にここ数年、風景を撮る時にも、人を撮る時と同じように、その場面に気持を注ぎ込もうと考えながらカメラを構えている。気持を注ぎ込めば山や海が微笑んでくれるわけではないとは思うけど、何というか‥‥そこには何かの差が生まれるような気がするのだ。気持を注ぎ込んだ自分ならではの。

何だか雲をつかむような話になってしまったけど、風景を撮るのも、動物を撮るのも、人を撮るのも、僕にとってはやっぱり同じだなと思う。

本場の味

夜、吉祥寺へ。駅の近くのラオス料理店で、食事をしながらの打ち合わせ。ビアラオを飲みつつ、黒米入りのカオニャオと一緒にラープやガイヤーンをいただく。

その味が悪かったというわけではまったくないのだけれど、食べながら思い出していたのは、この間のタイ取材の時に、行く先々の安食堂や屋台で食べていた料理の味だった。ガイヤーン、パッタイ、ソムタム、カオマンガイ、センレックナーム‥‥安くて、さりげなく、それでいて鮮烈で、何とも言えずうまい。気候などにもかなり影響されていたとは思うが、あれらは文字通り、本場ならではの味だったのだろう。

そう考えると、僕はとてもぜいたくな経験をさせてもらえていたのだと思う。まあ、取材はほんとにきつかったけどね(苦笑)。

思い出して、笑って

午後、編集さんと待ち合わせて、代官山蔦屋書店へ。九月に森本さんが亡くなった後、タイ取材のためにずっとお店に行けないでいたのだが、ようやく今日、書店員の方に時間を取っていただいて、おくやみのご挨拶に。

二階のラウンジで一時間ほど、来月上旬に予定されているお別れの会の話や、森本さんや本やお店のよもやま話をしたのだけれど、不思議としめっぽい感じにはならなくて、あれやこれやを思い出しては結構笑っていたような気がする。きっとそれは、森本さんのお人柄もあるのだろう。

僕も、この世から立ち去った後、誰かに笑って思い出してもらえるような人になれたら、と思う。まあ、どっちかというと「あいつ、つくづく無茶ばっかやってたよね」と、あきれ笑いで思い出される方だと思うけど。

巻き戻るもの

終日、部屋で仕事。ここ最近、ずっとかかりきりだったタイ取材のデータチェックの取りまとめや写真のセレクトがようやく終了。明日の打ち合わせにも間に合いそうだ。

帰国して以来、何かといろいろ気忙しかったけれど、それも四週間以上休みなしで駆けずり回っていたタイでの日々に比べれば、だいぶマイルドな状態だったと思う。気候も穏やかで、ごはんはおいしいし、たっぷり寝られるし。家で自炊したり、コーヒーをいれたりしてると、いろんなものが本来の位置に巻き戻っていくような気がする。

まあ、すっかり日本時間に巻き戻ったら巻き戻ったで、そのうちまたそわそわしてきて、どこそこに行きたいなどという妄想が頭をもたげてくるのだろうな。困った病だ(苦笑)。