同じ場所へ

午後、銀座のキヤノンギャラリーで開催中の大塚雅貴さんの写真展「サハラの風」へ。大塚さんご自身によるギャラリートークを拝聴させていただく。

大塚さんはサハラ砂漠、特に近年はニジェールの辺境の地に暮らす人々の姿を撮影している。砂漠の中に舞う鮮やかな民族衣装と、輝く黒い瞳。同じ場所に何度も通うことで少しずつ培った信頼関係があればこそ撮ることのできた、素晴らしい作品の数々だった。

世界各地を撮る写真家には、大きく分けて、移動をくりかえしながら新鮮な感動を探し続けるタイプの人と、同じ場所に何度も通って求めるテーマを深掘りし続けるタイプの人がいると思う。大塚さんは間違いなく後者だし、僕もおそらくそうだ。もちろん、同じ場所といっても広いから、その中でいろいろ動き回ったりあれこれ試したりするのだけれど。

僕の場合、ラダックで深掘りし続けているうちに、だんだん自分自身の個性とかこだわりとかが消えて透明になっていくような感覚を感じていた。そこに居合わせて、あるがままを撮り、書く、そんな感じ。人それぞれ、いろんなアプローチがあるのは当然だし、それぞれ違ってるからこそ面白いのだけれど。

そんなわけで、今月末から僕は、また同じ場所へ戻ることになる(笑)。

繋ぎ止めるもの

昼、綱島のポイントウェザーさんへ。マトン・ローガンジョシュのランチカレーセットをいただきつつ、店内で行われている有志の写真家の方々によるネパール写真展を見させていただく。

僕たち人間は、忘れっぽい生き物だ。震災の被害に喘ぐネパールのことも、戦禍に踏みにじられているシリアのことも、ともすると心の中で薄れていってしまう。今回のような写真展は、そうして薄れていきがちな記憶を繋ぎ止めるための役割を果たしているのだと思う。それはもしかすると、募金集めと同じかそれ以上に大切な役割かもしれない。

一番残酷な仕打ちは、苦しみの渦中にいる人たちのことを、忘れてしまうことだから。写真や文章には、そうはさせないための力がある。

100人中、何人?

僕は基本的にアマノジャクなので、世の中で100人中100人が「いい!」と言ってるものには、怪しんで近寄ろうとしないところがある。百万部のベストセラーの本とか、大ヒット街道爆進中の映画とか、ヘビロテされまくりの歌とか、長い行列のできるパンケーキ屋とか。それは感覚的にひねくれてるところがあるからだろうな、と自覚している。

文章なり写真なりで本を作る側の立場からすると、ビジネスの視点だけで考えれば、100人中100人が「いい!」と喜んで買ってくれるような本づくりを目指すべきなのかもしれない。でも、そうしたアプローチはほぼ間違いなく、うまくいかない。何を伝えたいのかがぼやけて、結局、面白くも何ともないものになってしまう。少なくとも、ひねくれ者の僕は、そういう本を面白いとは思わない。

少なくとも本づくりに関しては、作り手自身が面白いと思えるものをぶれずに目指すのが一番いいと思う。それが、100人中1人にしか届かなかったとしても、その1人の心をほんの少しでも動かすことができたなら、その本には、この世界に存在すべき価値がある。

膝上と膝下

今年の夏は、男性用の服でもショートパンツが流行ってるらしい。アパレルショップにもたくさん並んでるし、街の中でも、もう結構大勢の人がショートパンツを穿いて歩いている。

僕自身、グラミチのクロップドパンツを新旧合わせて3本持っていて、夏の外出時にはローテで穿いている。ただ、個人的には、膝下まであるクロップドなら問題ないけど、膝上丈のショートパンツを外出用に穿くのは、正直ちょっと気後れしてしまう。何というか‥‥膝小僧が露出すると、守備力が下がっちゃうような気がして(笑)。

そのうち慣れっこになって、部屋着で穿いてるスウェットのショートパンツと同じような感覚で街にも繰り出すようになるのかもしれないけど。まあ、それ以前に、もうええ歳こいたおっさんだしね(苦笑)。

腑に落ちる

昨日の夜、またしても丑三つ時だったのだが、ベッドに横になってうとうとしてる時に、ぽん、と思いついたことがあった。

それはずいぶん長い間、かれこれ一年近く、どう扱ったものかと思い悩んでいた文章についてのアイデアだった。思いついてしまえば、ある意味とてもオーソドックスな落としどころだったのだが、そっか、それでいいのか、と、僕としてはものすごくすっきりと腑に落ちた着地点だったのだ。まあ、目前の仕事に直接関係のない文章だから、こんな風に今まで頭の中で転がし続けることができたのだが。

とはいえ、これはまだほんの始まりで、これからずんずん、深く深く、潜っていかなければならない。いつかこれを、納得できる形で人に見せられるといいな。