ウィリアム・プルーイット「極北の動物誌」

Animals of the Northウィリアム・プルーイットの名を知ったのは、たぶん他のほとんどの日本人がそうであるように、星野道夫さんの「ノーザンライツ」を読んだのがきっかけだった。

星野さんはこの本の冒頭で、かなり多くのページを割いて、かつてアラスカで実施が検討されていたという核実験計画「プロジェクト・チャリオット」について書いている。その核実験計画に対してアラスカで展開された反対運動で重要な役割を担ったのが、当時、アラスカ大学でもフィールド・バイオロジストとして右に出る者のいない存在であったプルーイットだった。核実験場の候補地に挙げられていたケープ・トンプソンの環境調査を担当した彼は、核実験で放出される放射能が極北の生態系に壊滅的なダメージを与えてしまうという調査結果を報告したのだ。

その後の根強い反対運動が功を奏し、プロジェクト・チャリオットは中止に追い込まれた。だが、それと引き換えに原子力委員会からの見えない圧力を受けるようになったプルーイットは、大学での職を追われ、アラスカだけでなくアメリカからも離れざるを得なくなり、カナダに移住し、そこで極北の自然についての研究を続けることになった。アラスカ大学での彼の名誉が回復されたのは、それから30年も経ってからだった。

1967年に刊行された彼の著書「Animals of the North」が、日本で「極北の動物誌」という本に翻訳されていたのを僕が知ったのは、もう新品が店頭に並ばなくなってからのことだった。残念に思っていたのだが、少し前に、状態のいい古本を手に入れることができた。ゆっくり、時間をかけて、かみしめるように味わいながら読んだ。

トウヒの木。アカリス、ハタネズミ、ノウサギ、オオヤマネコ、オオカミ、カリブー、ムース。極北の自然とその中で生きる動物たちの営みを、プルーイットの訥々とした筆致は、丁寧に、正確に、そして、鮮やかに描き出していく。膨大な時間をかけて、自ら原野を旅し、調査を重ね、見つめ続けた者にしか書けない文章だ。これ以上ないほど抑制の効いた文章なのに、そこからあふれて滲み出ているのは、極北の自然に対する彼の憧れと畏敬の念、そして愛情としか言いようのない思い。生命の尊さと儚さ、それらが巡り巡るからこそ、自然は自然たりうるのだということ。同時に彼は、現代社会に生きる我々人間が、そうした自然の摂理をいとも簡単に踏みにじり、時に回復不能なまでに傷つけてしまうことに鋭い警鐘を鳴らしてもいる。

極北の自然を愛し、その研究に一生を捧げた男。愛する自然を守ろうとしたがゆえに、アラスカから去らねばならなくなった男。彼の遺したこの「極北の動物誌」は、これからも折に触れて読み返しては、ツンドラの冷たい風の感触を思い出してぼんやりと物思いに耽りたくなる、そんな一冊だった。

それは本ではない

神戸連続児童殺傷事件の犯人が書いた本が、週間ベストセラーランキングで1位になったそうだ。版元は初版の10万部に加え、5万部を増刷。その一方、一部の書店では販売を中止する動きも増えているという。

この本については、出版社と著者が事前に遺族の了解を取っていなかったというその一点だけで、完全にアウトなので、内容の是非を論ずるに値しないと僕は考えている。出版社の社長がこの本についてどれだけそれっぽい社会的意義を並べ立てても、遺族の了解という絶対に外してはいけない手続きを確信犯的に外している事実に変わりはない。正直、反吐が出る。この本を書いた今では少年ではなくなった男にも、出版社の関係者にも、そして、遺族の了解を得ていないとわかっていながらこの本を買った人にも。

本は、人に寄り添い、支えるためのものだ。絶対に、傷ついた人の心をさらにえぐるようなものであってはならない。そんな本があるとしたら、それは本ではなく、紙クズ以下のものだ。

本を作る仕事に携わる者として、力を貸してくれるスタッフや書店員さんたち、そして読者に顔向けができないような本だけは、絶対に作らないようにしなければ、と思う。

込めるのは、気持か、心か

昨日の夜、ふっと思い浮かんだことなのだのだけれど。

文章を書いたり、写真を撮ったり、あと、絵画や音楽やその他いろんなものづくりをする時には、「自分自身の気持を込める」ことが大事だ、とよく言われる。もちろん、状況や求められるものによって違いはあるだろうけど、必要なクオリティを保った上で、その時その時の気持や感情をどれだけ表現できるかというのは、確かに重要なスキルなのだと思う。

ただ、僕自身だけに関して言えば、経験上、自分の気持や感情を写真や文章に込めようとして、うまくいった記憶がほとんどない。うっかりそうしようとすると、水が多すぎて炊き上がりがべしゃべしゃのごはんみたいになってしまう(苦笑)。理由は簡単、要するにヘタクソなのだ、感情表現が。

僕の場合、写真や文章に込めようとしているものがあるとしたら、その時その時の感情というより、もう少し胸の奥の方にもやっとある、心というか、思い入れというか、そういうものなのだろう。それはどうにも直接的に表現しづらくて、変な話、無心に黙々と一生懸命取り組むことで、やっと、そこはかとなく宿るかどうかというものだと思う。

こんなことをあらためて考えたのも、この間読み終えたある本が、抑制の効いた筆致で淡々と書かれていながらも、本当に真心のこもった、素晴らしい文章だったからだ。そのレビューは、またあらためて。

心の準備

いつもなら、海外での長期取材の出発十日前ともなると、気持ちがそわそわ、わくわくして、準備のあれこれが気になり始めたりするのだが、今回は何だか、まだイマイチ気分がノッてこない。

現地で予定している取材や仕事のうち、自分が完全にイニシアチブを握れないいくつかの案件の行方が、いまだに不透明な状況だからかもしれない。昨日書いた件も含め、どれもこれも三カ月くらい前から準備を始めているのだが、なぜにそこまで、というくらい頓挫し続けている。自分の本作りで編集者として進行管理している時にはありえないような座礁っぷりだ。

ほんと、無事にすっきり船出できるようになるのだろうか。正直、途方にくれる。心の準備は、まだ整えられないままだ。

頭痛のタネ

先週末に書いた頭痛と体調不良は、書いたとおり翌朝にはけろっと治ってしまった。が、それとは別に、未だに「頭痛のタネ」になっているのは、来週末から出発する予定のインド取材だ。

今回のインド滞在では、その最初の2週間に、今年2月末から行く予定だったはずがスタッフの負傷のためにキャンセルされた取材が再度組み込まれている。この取材では僕は裏方スタッフの一人としてコーディネートの仕事をしているのだが、出発までにしておかなければならない事前手配が、未だに全然終わっていない。原因の9割くらいは、ぶっちゃけインド政府のせいなのだが‥‥。そうしたしわ寄せが今になって全部こっちに来て、出発までに準備を終えられるのか、そもそも出発できるのか、という、ばったばたの事態になっている。僕の一存では、動くに動けない状態なのだ。

まあ、7月中旬からはラダックで、個人の立場でのいくつかの取材やツアーガイドの仕事が始まるので、いずれにしてもインドに行くことは間違いないのだが、ほんと、早くいろいろ決めさせてほしい、というのが正直なところではある。やれやれ。