回る回るよ

昨日と今日は、ラダックで撮ってきた写真の整理と、RAWからの現像作業。

ただでさえデリーより暑いほどの東京なのに、D800のバカでかいRAWファイルを扱わなければならないので、作業を始めてしばらくすると、MacBook Proも外付ハードディスクも熱くなって、放熱ファンがキュイーンと回りはじめてしまう。うるさいし、熱気で暑いし、作業中に落ちないか気が気じゃないしで、困ったものだ。

今日中に終わると思っていた作業はまったく終わらず、明日以降も継続。回る回るよ、放熱ファンは回る。

幸せな日々


月曜の朝、インドから日本に戻ってきた。ラダックのレーからデリーで乗り継いでの飛行機の旅は、今までになかったほど順調だったのだが、ちょうどいい時間に乗ったはずの成田から吉祥寺までのリムジンバスが都心で大渋滞につかまってしまい、それが一番疲れた(苦笑)。

一年ぶりのラダック。約4週間の滞在のうち、後半はガイドとしてのツアー添乗の仕事でほとんど埋まっていたし、自分自身の取材に割けた時間はほんのわずかだったのだが、それでも、ひさしぶりに手応えのある、自分自身でも納得のいく取材ができたような気がしている。自分本来のやり方が間違っていないことを、しっかり確認できたというか。

それらを差し引いても、今年のラダックで過ごした日々は、本当に幸せな日々だった。こんなにも穏やかな時間を過ごさせてもらっていいのかなと、ちょっと申し訳なくなるほどに。

その日々のことは、9月に予定している小さな写真展などでお見せできればと思う。お楽しみに。

暗い時代への道程

朝起きて、ベッドシーツと最後の洗濯物を洗濯し、近所のコインランドリーで乾燥機にかける。乾燥が終わるまでの間に、近くの小学校に行って、参院選の投票。人の集まりは……鈍かったように思う。選挙なんて所詮は他人事と勘違いしている人も多いのだろうか。

世界は今、暗い時代への道程をまっしぐらに進んでいるように思える。世界の至る場所でテロが発生し、この調子だと日本国内で起こるのもたぶん時間の問題だ。テロよりももっと大きな、内戦や、国同士の戦争も、いつどこで起こっても不思議でないきな臭さが漂っている。日本では、政府に脅されたマスメディアが口を閉ざし、教育の現場すら萎縮している。知るべきことは伝えられず、言うべきことも自由に言えなくなっていく。何て窮屈な世の中になってしまったのだろう。

家に戻って、カメラザックに撮影機材を詰め、荷物をまとめる。明日から約4週間のラダック滞在。帰国する頃までに日本がどんな国になってしまっているのか、ある意味怖い。まあでも、とりあえず、いってきます。

すべりこみセーフ

来週からインドに行くというのに、今週になっても、大学案件の取材があったり、諸事情で着手できないでいた書き仕事があったりして、なかなか仕事がすっきり片付かないでいた。今年は常にこんな風にばたばたしてるような気がする。

今日の夜になって、どうにかこうにか、全部の原稿を納品し、請求書を作って投函し終えた。これで全部終わり、のはず。本当に、ぎりぎりすべりこみセーフといった感じだ。

あ、荷造り……まだ全然できてない……(汗)。明日やろう、明日……。

写真とえこひいきについて

知り合いの写真家さんたちと話していると、撮影する時に「えこひいき」をするかどうか、という話題になることがある。

たとえば、アジアのどこかの国を旅していて、子供たちが5、6人いるような場面に遭遇して、仲良くなって、写真を撮ることになったとする。で、子供たちの中に、ものすごく写真映えのする表情の子がいたとしたら、どうするか。みんな平等に撮るか、それともその子だけちょっとえこひいきして撮って、狙ったカットをものにするか。

ほとんどの写真家さんは、「えこひいきはある程度します」と正直に言う。それは確かにそうだ。プロとしてよりよい写真を撮るためには、そういう選択をしなければならない時もあると思う。

ただ、自分の場合はどうだろう、と思い返してみると……えこひいきはしない、というか、できないと思ってしまう場合がほとんどだと思う。せいぜい子供たち全員集合のカットを撮った後、1人か2、3人ずつ個別に何枚か撮っていく中で、その写真映えする子も単独で撮る、くらいか。

なぜ、えこひいきできないと感じるのかと考えてみると、自分は何かの場面に遭遇した時、写真家としての目線ではなく、物書きとしての目線で対峙しているからだと思い当たった。写真家としてクオリティの高い写真をものにするなら、ある程度えこひいきをするべきなのかもしれない。でも、物書きとしては、その子供たちとどんな出会い方をして、どんな時間を過ごしたのかという事実の方が、時と場合によっては写真より大事になることもありうる。えこひいきすることでそれが微妙に崩れてしまうのは、僕の望む結果ではない。

文章は言葉の羅列だから、書こうと思えばどんな風にでも書ける。でも、だからこそ、僕は起こった出来事をありのままの形で書きたい。その結果、最善のクオリティの写真を撮り逃したとしても、それは仕方ないとあきらめる。

物書きの目線で、写真を撮る。プロの写真家の方々から見れば、まだるっこしいやり方なのかもしれない。でも、だからこそ撮れる写真、書ける文章もあるのかもしれない。最近はそんな風に思っている。