それなりにそれっぽくまとめる能力

ライターの仕事にもいろいろあるけれど、クライアントから依頼されて、どこかで誰かに取材して、それを基に原稿を書く場合。

取材がいい感じに盛り上がって、話の内容も面白ければ、たいていのプロのライターなら面白い原稿が書ける。でも、何かの原因で取材がうまくいかなかったり、話が予期していたよりも薄い内容だったりすると、さてどうしよう、ということになる。事前の準備不足でそうなったなら同情の余地なしだが、ちゃんと準備していたのにあれやこれやで困ったことになるというケースは、ライターをしていると、実は結構よくある。

で、どうするか。この場合、ルポルタージュではなくクライアントワークなので、イマイチなことをイマイチと書くわけにはいかない。かといって、そこまで面白くもないものをすごく面白いと書いたり、話を盛り上げるために実情とは異なることを書いたりするわけにもいかない。微妙なところをほんのりオブラートにくるみつつ、嘘や誇大表現にならない範囲で文章の流れを整える。薄い内容の話を、それなりにそれっぽくまとめる能力。これ、ライターが身につけておくべき能力としては、かなり高度な部類に属するんじゃないかと、僕は勝手に思っている。

それなりにそれっぽくまとめる能力。確かに高度なスキルではある。でも、これを発動させても、当たり前だけどそれなりの原稿にしかならないので、誰も気付いてくれないし、誰もほめてくれない。書いてる本人も、モチベーションは上がらないし、満足感も得られない。残るのは、どうにか窮地を切り抜けたという安堵だけ。

ライター稼業なんて、まあ、そんなもんだ。

批判と憎悪の違い

終日、部屋で仕事。明日の取材の準備をして、昨日取材した分の原稿を少し書き進める。

ネット上では、大阪のトンデモ幼稚園&小学校の話題がかまびすしい。いろんな情報や憶測が飛び交う中、右寄りな人と左寄りな人との間でやりとりされている言葉の異様な尖り具合には、個人的には正直、結構ドン引きするものがある。

理路整然とした根拠に基づかない批判、あるいは度を越した怒りの感情に任せてくり出された批判は、相手には憎悪として受け取られてしまう場合が多い。それに対する返答もちゃんとした根拠に基づいていなかったり、怒りに任せたものであったりすると、同じように憎悪として受け取られてしまう。そうするうちに、互いに相手を理解しようとすることなく、批判を受け止めようともせず、ただただ憎悪の投げつけ合いをくりかえすようになる。

今の日本では、いろんなところで、そういう不毛な投げつけ合いがくり広げられている。あと、たぶん、世界中のあちこちでも。

高崎取材

5時過ぎに起床。中央線で東京駅に向かい、上越新幹線に乗り継ぐ。今日は群馬県の高崎にある大学で取材。1日で4人にインタビューするという結構過酷なノルマ。

キャンパス内は時期的に学生さんがほとんどおらず、学食もやってないようだった。1人目の取材が終わった後、おひるを食べられそうな場所を探す。周りには……本当に何もない。静かで、がらーんとしていて。一軒のそば屋を見つけて、天ぷらもりそばを注文。そばの味があんまりしなかった。残念。

午後は立て続けに3人を取材し、どうにかこうにか無事に完遂。新幹線で東京駅まで戻り、八重洲地下のエリックサウスで鰆と菜の花のケララ風カレーとビール。ふう、生き返った。さて帰るか。と思ったら、中央線が止まっている。山手線で秋葉原に移動し、総武線各駅停車で三鷹へ。運よくすぽっと座れたからよかったものの、でなければ超激混みの車内で消耗し尽くしていたところだった。

よれよれしながら家に帰り着くと、今週金曜日に取材が追加されていた。嗚呼。

アメリカンコーヒー

喫茶店に入って、ブレンドコーヒーを注文した。初めて入った店だった。カフェというより、昔ながらの喫茶店。店内は広く、席と席の間もゆったりしていて、悪くない。

やや酸味の強い、いかにも昔の喫茶店の味という感じのブレンドコーヒーをすすっていると、まだ全部飲み終わらないうちに、なぜか目の前にもう一杯、コーヒーが運ばれてきた。

「サービスです。アメリカンコーヒーですが、よかったら」

びっくりした。スタバとかで新商品の試飲を小さなカップで出してもらえたりすることはたまにあるが、こういう昔からの喫茶店で、コーヒーを丸々一杯おまけされるなんて経験は、初めてだ。初見の客だったから、ちょっとおまけしてもらえたのだろうか。しかし、なぜ、ブレンドを飲んでる客にアメリカン。

正直、アメリカンはちょっと苦手なんだけど(笑)、このお店には、また来ようと思った。おまけ目当てとかではなく、なんとなく、いいなあ、と。

写真と演出

ここ数年のことだと思うのだが、世界各地の辺境に暮らす少数民族に民族衣装を着てもらって、完璧な構図とポージングで撮影した写真が結構たくさん世の中に出回るようになった。貴重な資料のポートレート写真として価値のあるものもたくさんあるが、その一方で、ちょっとカッコよく演出しすぎてしまっているものも少なくないと思う。

個人的には、いわゆるドキュメンタリー写真として世に出されているもので、ひと目見た時に「あ、これ、このへんをこう演出してるな」とわかってしまう写真は、正直言って苦手だ。あまりにも完璧な構図、あまりにもできすぎた雰囲気。そこに撮り手の作為や演出があることがわかると、一気に冷めてしまう。

その撮り手が伝えたかったことは何なのだろう。完璧な構図の美しい写真なのか、それともその場所で出会ったありのままの風景や人々や出来事なのか。僕は、完璧に演出されて隅々まで調整された美しい写真よりも、撮り手の感じたありのままの生の思いがぎゅっと込められた写真を見たい。