電話世論調査

東京都議会議員選挙についての世論調査の電話がかかってきた。昨日の午後だけで、二回も。

どちらも自動音声のナビゲートに従って、自分の意思に沿った番号を選んで押すという方式。調査内容はどちらも似たり寄ったりだったが、支持政党名を挙げる時の並び順が、一方は自民党が先で、もう一方は都民ファーストの会が先だった。都民ファーストの会を先に挙げた方の調査では、築地から豊洲への市場の移転問題についてかなり重ねて質問してきて、意図的に争点にしようとしているのを感じた。他にもいろいろあるだろうに。

結論から先に言うと、僕は都民ファーストの会&公明党にも、自民党にも、投票する気はございません。少数派で結構。あしからず。

スポーツへの興味を失ったことについて

気がつけば、しばらく前から、スポーツというものへの興味を失ってしまっている。

もともと、テレビの電源を入れる頻度が減っていたこともあるが、サッカー日本代表の試合中継さえ、親善試合レベルだと見なくなった。オリンピックは昔からまったく見ていない。プロ野球もJリーグもテニスも、全然である。この調子だと、次のワールドカップも見る気になれるかどうか、かなりあやしい。

何でこうなったのか、自分の中での理由をひもといてみると、おおまかに分けて、3つの原因があるように思う。まず、ショーアップされすぎた試合中継のあざとさと稚拙さにうんざりしたという点。次にFIFAや五輪組織委での長年の不祥事をはじめとする汚職と賄賂にまみれたスポーツビジネスにうんざりしたという点。そして、八百長やドーピング、脱税、レイシズムなど、選手側に蔓延する問題にうんざりしたという点、といったところか。

もちろん、この世界には、日々真摯にそれぞれの競技の道を極めようと努力している選手の方々が大勢いることは理解している。でも、そういう選手たちの努力を台無しにしてしまうほど、彼らを取り巻く最近の環境には、どす黒い汚濁が蔓延しているように見えてならない。

観戦する側も、そこまでバカじゃないのに、と思うのだが、どうなんだろ。

むしむしと

終日、部屋で仕事。さほど気温が高いとは思えないが、部屋の中も何だか、むしむしと、蒸し暑い。夕方、近所のスーパーに買い出しに行く時も、Tシャツ1枚とクライミングパンツ、サンダルで出かけた。

スーパーの店内もすっかり初夏の雰囲気で、青々とした葉物野菜、そうめんとそうめんつゆ、地味なところでは除湿剤など、品揃えの至るところにその気配があった。いつのまにやら、という感じである。早いなあ……。とりあえず、それに乗せられて、セール中のそうめんとつゆを買う。

まあでも、夏の前に、梅雨か。明日はまるっと雨になりそうだけど。

牧畜民とカツサンドと時計職人

昨日はなかなか霧雨が止まなかったが、午後から出かけた。

まず、吉祥寺のキチムで始まった「ヤクとミルクと女たち チベット牧畜民のくらし展」へ。チベット・アムド地方の遊牧民の人々の暮らしぶりが丁寧に紹介されていて、ラダックのチャンタンの遊牧民との共通点や違いを考えながら拝見させてもらった。展示のあちこちに細かな工夫がなされていて、主催者の方々の思い入れが伝わってきた。見れてよかった。

夕方までに渋谷に移動し、またしてもユーロライブの南インド映画祭へ。夜の部のチケットを買い、時間が来るまで、宇田川町のマメヒコでカツサンドとジンジャーソーダをいただきながら、じっくり読書。これもまた、とてもいい時間だった。

で、この日観た映画はタミル語映画の「24」。タイムマシンを発明してしまった科学者とその双子の兄弟、そして科学者の息子である時計職人を、スーリヤという俳優が一人で演じ分けるという、すごい配役。その演じ分けにまったく違和感がなかったのもすごかった。例によってツッコミどころは数あれど(笑)、二転三転する物語はよく練られていたし、細かな伏線が綺麗に回収されていくのも気持よかった。しかしまあ、時計職人って、何でもできるんだなあ(笑)。

すっかり一日遊んでしまったので、今日からしばらく真面目に働きます。はい。

「ルシア」

南インド映画祭で公開された12本の作品のうち、唯一のカンナダ語映画「ルシア」。カルナータカ州で主に話されている言語の作品だ。クラウドファンディングで調達した資金で作られた低予算作品なのだが、いい意味で、今年観た中で一番の「してやられた感」を感じた映画だった。

大都会バンガロールの片隅で、客の入りの悪いカンナダ語映画にこだわって上映を続けている古い映画館。田舎者で学のないニッキは、その映画館で客の案内係をして暮らしている。同居人の男たちのいびきで眠れない夜を過ごしていた彼は、胡散臭い売人たちから「ルシア」という睡眠薬を買う。それはただの睡眠薬ではなく、自分の思い通りの楽しい夢を見ることができて、薬を飲むたびにその夢の続きを見られるという薬だった……。

何をやってもうまくいかない、どん詰まりの現実から逃れるように、彼は夢を見る。夢の中での彼は、誰もが羨む華々しい立場の人間で、仕事も、恋人も、思うがまま。のはずだった。夢は微妙にぎくしゃくしはじめ、現実は予想外の方向に転がりはじめる。そして……これは夢なのか。それとも現実なのか。この映画そのものが夢なのか。

観る者を翻弄するこの「ルシア」の中で、常にまっすぐに届いてくるのは、映画への愛情だ。現実のつらさをつかの間忘れさせ、小さくても生きる希望を心に灯してくれる映画というものの存在と役割を、この作品の作り手たちは本当に大切に考えているのだと思う。

誰かにとっての小さな夢は、別の誰かにとっては大きな夢かもしれない。一人ひとりが現実の中で、それぞれの夢を抱えて生きることの意味。観終わった後の不思議な余韻の中で、そんなことを考えさせられた映画だった。