誰がための冒険ではなく

僕はよく、面と向かって、あるいは人づてに、「ヤマモトさんは、冒険家なんですか?」と聞かれる。「ワセダの探検部出身ですか?」と経歴を確かめられたり(まったく関わりはない)、「ひげもじゃでクマみたいにゴツい人だと思い込んでました」と言われたり(メガネでひょろっとしたヘタレのおっさんである)。たぶん、ラダック関係で書いた2冊の本や、雑誌などに時々寄稿している記事から、そういうイメージを持たれているのだろう。

実際、僕は単に物書きと写真を生業にしているだけの男だ。今も昔も、写真や文章のネタとしての「冒険」はしていない。僕の仕事は、ある場所に行って、自ら見て聞いて感じた物事を、文章と写真で伝えること。その過程でくぐり抜けねばならないリスクがあれば挑む場合もあるかもしれないが、それ自体は目的ではない。犯さなくていいリスクは、極力避ける。人の助けが必要なら頼りまくるし、文明の利器が使えるならそれにも頼りまくる。だから僕は、冒険家ではまったくない。

もちろん、世の中には、前人未到のチャレンジを成し遂げることを目標に活動を続ける冒険家の方々がいることも承知している。周囲にも、直接あるいは間接的に存じ上げている著名な方々は多い。周到な準備と計画、頑強な身体と卓越した技術、そして目標達成への執念。けっして無謀ではなく、紙一重のリスクを冷静に見極めつつ、時には撤退する勇気も持つ。どれも自分には真似のできないものばかりだし、彼らが書いたり語ったりする言葉には、それぞれ唯一無二の価値があるのだろうとも思う。

ほとんどの冒険家は、誰のためとかではなく、自分自身の目標を達成するために、冒険に挑む。それは当然のことだ。冒険に挑む理由を自分の外に求めてしまったら、そのしがらみがギリギリのところで判断を誤らせるかもしれない。ファンの期待や、スポンサーの支援。あるいはアンチに対する反発。それらを背負いすぎると、つらいことになる。

登山家の栗城史多さんが8度目のエベレストへの挑戦中に亡くなったというニュースを知って、頭に浮かんだのが、そんなもやもやした思いだった。登山の実況中継という「冒険の共有」にこだわりすぎて、リスクの見極めに無理が生じてはいなかったか。もし、何よりも自分自身のための登山であったなら、実力に合ったルートや酸素ボンベの携行という選択も含めて、登頂して帰ってこられる可能性は、ずっと高かったはずだ。仮にそうしても、その後に彼が語る言葉には、十分すぎるくらい人の心を動かすものが宿っていただろうに。

誰がための冒険ではなく、自分自身のための冒険をしてほしかった。

どっしりとしたもの

最近になって気付いたのだが、僕はどうやら、軽やかなものよりも、どっしりとしたものの方が好きらしい。コーヒーは昔からもっぱら深煎りだし、ビールならIPA、ウイスキーならスモーキーなフレーバーの方がいい。

文章も、何も考えずにさらっと読めてしまうものより、わかりやすさは維持しつつも、一言々々に余韻がにじみ出るような文章を書きたいと常々思っている。写真もそうだ。パッと見が派手で映えるものより、被写体の存在感がじわじわと伝わってくるような写真を目指すようになった。

こういう僕はたぶん少数派に属する人間だし、僕が手がける文章や写真も、多数派に受け入れられるものではないのかもしれない。まあでも、それはそれでいいか、と思う。ちゃんとしたものを作れば、それはきっと意味のある形で残る。

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ケン・リュウ『母の記憶に』読了。とにかく上手いし、アイデアも多彩。『紙の動物園』でも感じたのだが、彼のルーツである中国やアジアの血脈を感じさせる作品に特に惹かれる。この本では揚州大虐殺をテーマにした「草を結びて環を銜えん」と「訴訟師と猿の王」の2作が凄かった。

ウィキペディアさん

夕方、近所の理髪店へ。

店主さんが僕の髪にはさみを入れながら、「この間から、歯が痛いんですよね」と僕に言う。「へー、そうなんですか」と返事をすると、いろんな質問をされはじめた。ロキソニンはドラッグストアで買えるのか、歯間ブラシで歯ぐきを傷つけたのが原因っぽいのだがどうすればいいか、などなど。

「ほかのお客さんには最初からこんなこと訊かないんだけど、ほら、あなた、何でもよく知ってるからさ。ウィキペディアみたいに」

というわけで、僕は、このお店で「ウィキペディアさん」と呼ばれるようになってしまった。何だこの展開(苦笑)。

カフェマメヒコ宇田川町店

午後、渋谷へ。モンベルまで旅先に着て行く少し厚手のロンTを探しに行ったのだが、一番の目的は、マメヒコの宇田川町店に行くこと。7月2日で、閉店してしまうのだという。以前、週末に行こうとしたら長蛇の列ができてて入れなかったので、そのリベンジに。

さすがに平日の午後は空いていて、ゆったり座れた。中央の大きなテーブルの一番端の席に座り、アイスコーヒーとフルーツサンドのハーフサイズ。どちらも王道のうまさ。本を1時間ほど読む。

宇田川町にこの店ができたのは11年前だというから、僕が時々立ち寄りはじめたのは、その数年後からだと思う。その後できた公園通り店と併せて、渋谷がアウェイな僕にとっては本当に数少ない、ほっと落ち着ける店だった。半地下の薄暗い店内、大きなテーブルとランプの明かり、丁寧で感じのいい店員さんたち。

そこに行けばいつも必ずあるはずだ、と思い込んでいた場所が、なくなる。近場に移転するという噂も聞いたけれど、あの場所は、なくなってしまうのだなあ。

あともう一、二回行って、今度はカツサンドを食べておかねば。

それは当たり前ではなく

先週末、母が上京してきた。新宿のホテルに宿を取ったというので、実家のある岡山にはなかなかないというタイ料理店で、一緒に晩飯を食べた。

タイ料理店から喫茶店に場所を移そうということになり、街を歩いていると、「紀伊國屋書店を見てみたい」と言われた。地下一階の旅行書コーナーでは、三月末に出たばかりの僕の本が10冊ほど面陳して置かれていた。

「こんな風に置かれてるの、見たことなかったわ」と母が言った。まあ東京だから……と言いかけて、それは当たり前のことではない、と思い直した。本がこの世に生み出されて、書店の店頭に並べられ、お客さんが手に取って、レジに持っていく。それが、どれだけ大変なことか。どれだけ多くの人の力を借りなければならないか。

本を作り、読者に届ける。この仕事の重さを、あらためて感じた。