真似と分析

文章にしろ写真にしろ、あるいは他の芸事にしろ、好きな作家の作品を真似することが上達の近道、と指南している例を時折見かける。それはまったく間違っているわけではないけれど、ただ闇雲に好きな作品の真似をするだけでは、レベルアップするのは、真似の精度だけだと思う。

自分はなぜその作品を良いと思うのか。その良さはどこからどのようにして現れているのか。作家はそのためにどんな工夫をしているのか。それらを一つひとつ仔細に分析して、自分なりの理屈に落とし込んでいくと、それを自分の作品に照らし合わせた時、自分の良い面と足りない面がわかってくる。そういった分析のための作業として好きな作品の模倣をしてみるのであれば、悪い方法ではない。

ただ……本当にすごい作品は、そうした小賢しい分析すらも軽々と凌駕してしまう、理屈からはみ出してしまうような「何か」を持っている。それは、けっして技術的なものさしでは測れないものだ。自分だけの「何か」を掴み取るために、書き手や撮り手や描き手は、今日も魂をすり減らしている。

続けるコツは、がんばらないこと

何かしらの勉強ごととか、あるいはダイエットや筋トレとか、まあ何でもいいのだが、何かを習慣化して続けていこうとする時、一番のコツは「がんばらない」ことなのでは、と思う。

大学受験や資格取得の勉強とか、スポーツの大事な試合とか、短期的な目標を目指す時は、完全に集中してがんばった方がいい。でも、そうではなく、ずっと長い時間をかけて何かに取り組んでいく場合は、あまり負担にならない程度のことから始めて、ゆるゆる続けていった方がいい。最初からシャカリキにがんばっても、たいていどこかで無理が生じて、反動が来る。できる範囲のことをじわじわ積み重ねて、ちょっとずつステップアップした方が、反動も少ないし、結局、よりしっかりと身につく。

結果は、せっかちに求めない方がいい。気がついたら結果が出ていた、くらいの感じでいたい。今までもこれからも、仕事も私事も、がんばらないでいこうと思う。

お高いビールをあえて選ぶ

僕は一昨年まで、家で毎晩ビールを飲んでいたのだが、去年の初め頃から、基本的に2日に1度、350mlを1缶というルールに変えた。間隔が長くなったことでアルコールの分解作業で肝臓にかかる負担が減ったからか、ぜい肉もすっかり落ちたし、体調もいい。まあ、ストイックにルールを守るだけだとストレスもたまるので、たまに参加する飲み会の時は、好きなだけ飲んでいいという恩赦を与えてはいるが(笑)。

ただ、通常の家で飲んでいい設定の日まで欲望に負けて飲み過ぎてしまうと元も子もない。この解決策として、家飲み用にあえてちょっと値段の張るビールを選ぶのはどうだろうか。安い発泡酒のストックが家にずらりと揃ってたりすると、どうしてもぐびぐび飲みすぎてしまいがちだが、お高めのビールだと、ある程度は心理的なブレーキがかかるはず。トータルコストで考えても、発泡酒を飲みすぎてしまう方がむしろ高くついたりするし。

昨日のエントリーの続きみたいな感じだが、僕は酒を飲むなら、おいしく味わって飲みたいのである。2日に1度しか飲めないルールなら、ちゃんとおいしい酒を、しみじみ味わって飲みたい。

酔うために飲むのではなく

世間では最近、「安くてすぐ酔える酒」が人気らしい。アルコール度数がかなり高めのチューハイなどがそれだ。そういえば海外、たとえばブータンにも、アルコール度数がやたら高いビールがあって、地元のガイドさんに聞いたら「安くてすぐ酔えるから人気がある」と言われた。

僕自身はそういう「安くてすぐ酔える酒」を自分で買って飲んだことがないから、味とかの評価はできないのだが、たぶんこれからも「安くてすぐ酔えるから」という理由で酒を選ぶことはないだろうな、とは思う。

僕は基本的に、酔うために酒を飲んだりはしない。そもそも、結構な量を飲んでも酔っ払ったり性格が変わったりしないというのもあるが、僕は酒が「おいしい」と思うから飲む。完全に酔っ払ったら、酒の味がわからなくなってもったいないし。

なので、せっかく飲むなら、何よりもまず「おいしい」と思える酒を選びたい。その選択肢の中にハードリカーが入っていれば、無茶でない範囲で飲む。それでいいんじゃないかと思う。最初から「酔うために飲む」というのは、やっぱりもったいない。酒は、味を楽しまなきゃ。

本は人を繋ぐ

昨日は、昼の間に書店回りをし、午後は板橋方面で取材。その後、夕方から渋谷にある旅行会社さんの事務所で、打ち合わせという名の飲み会。餃子の達人と厚焼き卵の達人がいらしたおかげで、うまい料理とうまい酒を、たらふくごちそうになってしまった。参加してくださったみなさんもとても楽しそうで、何よりだった。

しかし昨日の集まりは、何だか、とても不思議な気分にさせられた。もし、僕が過去に作ってきた何冊かの本の仕事がなければ、あの場所にいた人たちは、互いに出会う接点もまったくないまま、今に至っていたかもしれないのだ。

自分が引き合わせたなどと傲慢なことを言うつもりは毛頭ない。ただ、その時その時の自分のベストを尽くして良い本を作ろう、ともがき続け、ささやかながら世に送り出してきた本たちが、結果的にある種のかすがいとなって、今もいろんな人たちを繋いでくれているのかもしれない、とは思う。

本は、人と人とを繋いでくれる。