神戸元町中華街

この間の週末は、用事があって、一泊二日で神戸に行ってきた。

神戸では、元町というところで宿を取った。元町はほんのりと潮の匂いのする町で、広々とした商店街を、人々がのんびりと行き来していた。「神戸ビーフ」を謳う看板があちこちにあり、それと同じくらいの数のスパイダーマンの等身大人形が、なぜかあちこちに貼り付いている。元町にはこぢんまりとした中華街もあって、大勢の若者たちがわいわい騒ぎながら、小さな椀で売られている400円くらいの麺を道端ですすっていた。

宿はその中華街のすぐ近くにあった。シンプルで小綺麗な宿で、Wi-Fiはもちろん、フリーのドリンクバーもある。海外からの宿泊客も多いから、このくらいの設備はあって当然なのだろう。夕方に少し散歩した後、お茶でも飲もうと思ってそのドリンクバーに行くと、むっちゃ見覚えのあるパッケージの烏龍茶のティーバッグが置いてあった。海外の中華圏を旅すると、いろんなところで遭遇する、どこにでもあるありふれた烏龍茶。ありふれてるのに、これがまた、うまいのだ。

ティーバッグをお湯に浸して、ひと口すすったとたん、どこかの国の見知らぬ宿にいるような気分になった。

澱を捨てる

月末の引越しに備えて、途方に暮れながらも着手しはじめたのは、不用品の整理。今度の転居先にはそんなにたくさんのものは持ち込めない。クローゼットや押入れ、その他あちこちに積み上がっているものを仕分けし、要らないと感じたら容赦なく、武蔵野市の有料ゴミ袋に突っ込んでいく。

この十年間でずいぶん増えたと思っていた持ち物の大半は、実は、なければないで別に困らないものだったことに、あらためて気付く。「あれ? こんなのまだ持ってたっけ?」と、存在すらとっくに忘れていたものも多い。自分でも気付かないうちに、いつのまにか、澱のように積もり積もっていたのだなあ、と思う。

もちろん、知り合いに譲ったら喜ばれるようなものは積極的に引き取り手を探してはいるのだが、この機会に一度、自分の生活をシェイプアップしてみようと思う。澱を捨てて、すっきりと。

「地上」2018年7月号「極奥物語 第十話」


6月1日(金)発売のJA(農協)グループ刊行の雑誌「地上」2018年7月号のカラーグラフに隔月で掲載されているシリーズ「極奥物語」に、今年1月に取材したラオス北部の少数民族の村々についての写真紀行「紅の矜持」を寄稿しました。

同誌は一般の書店では販売されていませんが、下記のページから申し込めば、単月号を1部から購入可能です。必要事項をフォームに記入して申し込むと、雑誌本体と請求書兼払込用紙が送られてきます。

「地上」購読申し込み|地上|雑誌|一般社団法人家の光協会

写真はすべて撮り下ろし、文章も書き下ろしの写真紀行です。ご一読いただけると嬉しいです。

十年ぶりの引越し

六月の終わりに、引越しをすることになった。

引越し先はそんなに遠くではなく、隣の杉並区、最寄駅は西荻窪。二十代の頃はしばらく荻窪に住んでいたから、再び杉並区民に戻るということになるが、正直、まだあまりピンと来ていない。

今住んでいるマンションに越してきたのは、ほぼ十年前。三鷹に住みはじめたのは、そこからさらに五、六年ほど遡る。途中、ラダック取材で日本にいなかった時期も結構長いので単純比較はできないが、高校卒業まで住んでいた岡山の実家と同じくらい、三鷹で暮らしてきた計算になる。

三鷹にはリトスタやまほろば珈琲店をはじめ、馴染みの店がたくさんあるから、これからも月に何度かは来るとは思う。それでも、やっぱりここを離れるとなると、それなりにいろいろ思い出してしまう。

今まで生きてきた時間と、これから訪れる時間の、割と大きな節目となるタイミングなのだろうな。とりあえず今は、引越し当日までに必要な準備と手続きが膨大すぎて、気が遠くなってる(苦笑)。

「エモい」について

この間、僕のタイ写真展「Thailand 6 P.M.」を見てくれた年下の知人から、「あの写真は……エモいですね!」という褒め言葉をもらった。自分の写真を「エモい」と言ってもらったのは初めてだったのだが、そもそも「エモい」という言い回しにはどういう意味が込められているのか。ちょっと検索してみると、面白いことがわかった。

もともとは、音楽のエモーショナル・ハードコアからきている言葉だそうで、感情的でメロディアスなさまを「エモい」と形容していたのだとか。そこから少し間が空いて、2016年頃から「なんかうまく説明できないけど、ぐっときた」というような意味合いで「エモい」という言い方が世間でよく使われるようになったらしい。

僕自身は、自分の写真や文章が「エモい」のかどうかはわからないし(撮り手や書き手本人はたいていそうだと思う)、何をどうすれば「エモい」作品を生み出せるのかもわからない。ただ、「うまく説明できないけど、ぐっとくる」部分をどこかで意識しておくのは、すごく大事だと思う。ロジックや計算はプロとして常に意識しておくべきことだけど、「エモい」と思わせる要素の源は、どうやらその計算枠からちょこっとはみ出した部分にあるように思うのだ。

計算し尽くされた構図や色彩、すらすらと読める流麗な文章。そこから、ちょこっと、はみ出してみる。そういうチャレンジをしていければ、と思う。