Category: Essay

車窓の記憶

二十代の頃から、国から国、街から街へと、あちこちを旅してきた。飛行機はあまり好きじゃないし、お金もなかったから、移動はもっぱら、列車かバス。そうした移動の時、僕は音楽を聴いたりはしない。ただずっと、窓の外を見ているのが好きだ。

今まで見てきた車窓からの風景の中で、特に記憶に残っているのは‥‥二つある。

一つは、初めての海外旅行の時、中国のウルムチから北京へと向かう長距離列車。深夜にウルムチ駅を発車した直後、橙色の町の灯りが次第にまばらになって、闇に吸い込まれていくのを眺めていた。あの時の、胸をぎゅっと締めつけられるような寂しさは、それまでに経験したことがないものだった。

もう一つは、十年前のアジア横断の旅の時、パキスタンのクエッタから国境を越え、ザヘダン、バムを経て、シラーズへと向かうバス。かつて、バックパッカーに世界三大悪路とも呼ばれたこの道程では、灰色の土漠が果てしなく続く。時折突風で土煙が上がるだけで、生き物の影すらない。何もかも剥ぎ取られたその風景を見つめながら、僕は何時間もの間、ずっと物思いに耽っていたことを憶えている。

もっと鮮烈で美しい風景もたくさん見てきたはずなのだが、今、パッと脳裏によぎるのは、なぜかそういう寂しい風景だったりする。たぶん、僕が憶えているのは、その風景を見つめていた時の自分自身の思い、なのだろう。

好きな文章、嫌いな文章

文章の良し悪しとは何によって決まるのか、ということについて考えてみる。

身も蓋もない言い方をすれば、それは結局、読者次第だ。どんなに有名な作家が書いた文章でも、どうにも性に合わないという人はいるだろうし、多くの人が駄文としかみなさないものでも、ある人にとっては心を動かされる文章かもしれない。文章の良し悪しは、人それぞれ。百人中百人がいいと思う文章は、たぶん、ほとんど存在しない。

僕自身、何がいい文章で、何が悪い文章なのか、はっきりした基準を持ってはいないし、それが他の人に通じるとも思わない。物書きとしては、それじゃダメなのかもしれないが‥‥(苦笑)。ただ、自分はこういう文章は好きで、こういう文章は嫌いだ、という個人的な好みを挙げることはできる。

僕が好きな文章は、書き手の人となりが、素直に表れている文章。たとえ、ところどころが拙い印象でも、「これを伝えたい」という気持が一行々々に籠っていれば、僕はそれを「いいなあ」と感じることが多いような気がする。

で、嫌いな文章は‥‥うまく言えないが、「カッコつけてる文章」かなあ。「カッコイイ文章」ではなく、「カッコつけてる文章」。

「カッコイイ文章」というのは、本当に何か素晴らしいテーマについてきっちり書かれていれば、自然とそういう文章になるものだと思う(僕はそんな風に書く自信はないが‥‥)。でも、時々、実際よりも物事を大仰に、感動的に盛り上げて書こうとしたり、気の利いた(と往々にして思い込んでいる)レトリックで文章を飾り立てたり、書き手自身をよりよく見せようという作為が透けて見えたりすると、ぱたん、と本を閉じてしまうことが多い。

まあ、僕には「カッコつけてるなあ」と感じられる文章も、もしかするとその書き手は、裏表のない素直な気持で書いたのかもしれないし、そういう文章が好きな読者もいるかもしれないから、やっぱり、いいとか悪いとかは言えない。あくまでも、個人的な好き嫌いの話ということで。

作り手は作り手に嫉妬する

以前、西村佳哲さんにインタビューをさせていただいた時、次のような話を聞いたことがある。

「たとえば、出来のいい映画を観て“くやしい”と感じる人は、モノ作りに携わっている人ですね。そういう人は、作る側に視点が回っていくものなんですよ」

確かに、それは当たっていると思う。自分を例に挙げるのはおこがましいけど、面白い本を読み終わった後は、無性に原稿を書きたい気分になったりする。先日、たかしまてつをさんの個展にお邪魔した時は、「こんな空間で、壁一面にバーンとラダックの写真を展示したら、気持いいだろうなあ‥‥」と妄想したりもした(笑)。あと、逆の立場では、ある飲み会の席で、同業者の人から「ヤマタカさん、ぼかぁ、あんたに嫉妬してるんですよ!」と、面と向かれて言われたこともある。別に、僕はそこまでの人物じゃないんだけど‥‥(苦笑)。

作り手は作り手に嫉妬する。それはとても健全な反応だし、互いにそれを糧にして新しいものを作り上げていければ、素晴らしいことだ。ただ、他の人の作品に刺激を受けて、「よーし、自分も!」と決意しても、相手の後追いで似たようなものを作るだけでは、単に模倣をしているにすぎず、オリジナルはけっして越えられない。作るなら、自分自身のアイデアと力で勝負しなければ、意味がない。

単なる後追いで終わるか、自分の道を見出すか。本物の作り手になれるかどうかは、そこが分かれ目だと思う。

自分の本を出す方法

仕事柄、初対面の人からよく、「自分で書いた本を出してみたいんですけど、どうすればいいですか?」といったことを訊かれる。

利益も何も考えずにただ本を出したいだけなら、自費出版をすればいい。しかし、ある程度全国各地で販売されるような本を、ちゃんとした出版社から出したいというのであれば、ハードルはかなり上がる。僕自身、別に売れっ子でもないので偉そうなことは言えないが、自分自身で企画の持ち込みなどをしてきた経験から、思いつくことを書いてみる。

まず、誰もが認めるような素晴らしい才能の持ち主なら、それなりのアクションさえしていれば、遅かれ早かれ認められるようになる。世の中には、そういうまぎれもない天才が確かにいる。ただ、そんな稀有な才能の持ち主は、本当にほんのひと握りしかいない。

自分の本が出せなくて悩んでいる人の多くは、持って生まれた才能だけで勝負しようとしているのではないだろうか。確かにその人には、ある程度の才能があるのかもしれない。が、並み居るライバルを押しのけて突き抜けられるほどの才能とは、編集者の目には映っていないのだろう。

では、僕のように(苦笑)イマイチパッとしない能力しか持ち合わせていない人は、どうすればいいのか?

それは、才能の前に、企画で勝負すること。

「これだ!」と閃いたアイデアを、あらゆる方向から検討し、調査で理屈を補強し、周到に準備を重ねていく。そうして一分の隙もないくらいに仕上げた企画を見せて、「自分はこういう本を作りたいんです!」と提案する。そういう理詰めのアプローチの方が、漠然と「本を出したいんです」と持ちかけるより、何倍も成功率が高くなる。小説のように書き上げた原稿を持ち込む場合でも、土台となるアイデアが大切なことは変わりない。

今年初め、ある出版社に企画の持ち込みに行った時、「こんな風にちゃんとした企画書を持ってくる人、なかなかいないんですよ」と言われて驚いたことがある。当たり前といえば当たり前のことかもしれないけど、本当に心の底から作りたいと思える本があるなら、まずはその企画を徹底的に鍛え上げて、武器にすることを考えるべきだと思う。

ペン先の小さな神様

物書きという仕事に携わるようになって以来、長短合わせて、それなりにたくさんの文章を書いてきた。納得のいく出来の文章もあれば、いろいろな理由で悔いの残る文章もある。でも、本当の意味で自分の中にあるすべての力——記憶とか感情とか、何もかも含めて——を出し切ったと思えたのは、「ラダックの風息」を書いた時だったと思う。

あの本の草稿は、2008年の春から秋までの半年間をかけて書き上げた。当時はまだラダックでの現地取材を続けていたから、草稿の大半を書いたのもラダック。自分のパソコンは持って行かなかったので、取材の合間を縫って、小さな紙のノートに端から端までびっしりと、ページが真っ黒になるまでひたすら書き続けた。

あの文章を書いていた時の感覚は、僕がそれまで経験したことのないものだった。馴染みのカフェの席に坐り、ノートを広げ、ペンを握り、ページを見つめる。すると、周囲の視界が急に狭くなって、物音も小さくなる。頭の内側がじーんと痺れたようになり、ペンを持つ手が知らぬ間に動き、文字を書き連ねていく。まるで、ペン先に米粒大ほどの小さな神様が坐っていて、次はああ書け、こう書け、と指図しているかのように。

ラダックの風息」を書き上げた後、ペン先に小さな神様がちょこんと降りてきたことは、一度もなかった。どこがどう違うのか、僕自身にもわからない。でも、つい最近になって「もしかすると、あの神様が降りてくるかもしれない」と思える題材が見つかったような気がしている。まだどうなるか自分でもわからないけれど、また、あの時のような感覚で文章が書けるかもしれない。

大切だと思えること。伝えたいこと。それを、一心不乱に書く。