Category: Essay

自分が見つからない旅

「自分探しの旅」というと、割とコアな旅好きの人の間では、面白おかしく揶揄されるか、半笑いでスルーされるかのどちらかなんじゃないかなと思う。いつ頃からそういう風潮になったのかはわからないけど、「旅に出ようぜ! 放浪しちゃおうぜ! そしたらきっと新しい自分が見つかるよ?」みたいな主張をする旅行記が、世に出回るようになったからかもしれない。

個人的には、若い時期に何か行き詰まることがあって、「旅に出て、新しい自分を見つけたい!」みたいな動機というか衝動で、ある程度長い期間の一人旅に出るのは、むしろとてもいいことなのではないかと思っている。「どうせ旅に出たって人生何も変わらないし」と、シラけて何もしようとしない人よりよっぽどいい。僕自身、二十二歳の時の最初の海外一人旅は、どん詰まりに行き詰まったあげくに選んだ道だったし。

ただ、そういう「自分探しの旅」で「自分」が見つかるとはかぎらない。というか、まず見つからないと思う。「見つかった!」と満足してる人には「よかったですねえ」と言うしかないが、たぶんそれは「見つかった」と思い込んでるだけ。僕の時は、自分が見つかるどころか、世界というものの大きさ、美しさ、優しさ、怖さ、複雑さ、醜さ‥‥そして不条理さと理不尽さを、これでもかというほど見せつけられて、自分がいかに何も知らなかったかということを思い知らされただけだった。僕の最初の旅は、「自分が見つからない旅」だったと言っていいかもしれない。

でも、そんな風に世界に打ちのめされてしまう旅だったとしても、無駄な経験は一つもないと思う。いつかどこかで、何かにつながるヒントが必ずある。僕の場合もあくまで結果論だけど、今の仕事に携わるようになったのは、あの「自分が見つからなかった」最初の旅の経験があったからこそだったから。

まだ旅を知らない人には、「自分探しの旅」でも何でもいいから、外の世界に飛び出して、ボッコボコに打ちのめされてみることをおすすめする。

理不尽な仕打ち

何かが思うように進まなかったり、うまくいかなかったりして、ため息をつきたくなるような時、本棚にある色川武大の「うらおもて人生録」に手が伸びる。この本については前にも書いたことがあるけれど、今でも何か思い悩むたびにページをめくりたくなる本だ。

人間が持っている運は、プラスマイナスゼロ。15戦全勝で勝ちっ放しのまま終えられる人はまずいない。勝てる時にしっかり勝てる最低限の実力をつけ、8勝7敗あたりを狙って、9勝6敗にまで持って行けたら大成功、と戦後の賭場で修羅場をくぐってきた色川さんは書く。

自分自身をふりかえってみると‥‥やっぱり、とんとんくらいなのかな。同年代で会社勤めしてる人に比べればしがない収入で、しかも不安定なフリーランサー。その代わり、行きたい時にどこにでも行けて、好きなことを本に書けるという自由を享受している。社会的な立場の弱さからいろいろえげつない苦労もさせられるけれど、社内で逃れられない人間関係に振り回されるようなストレスはない。自分の名前で書いた本で、喜んでくれる読者の方がいてくれるのは、何物にも代えられない嬉しさだけど。

たぶん人はみな、プラスマイナスゼロの運の波間で、8勝7敗か7勝8敗のあたりの浮き沈みをくりかえしながら、懸命に生きているのだと思う。やるべきことを真っ当に積み重ねていけば、だいたいそうなるのだろう。最低限の積み重ねをせずに大負けをくりかえして人生を呪ってる人もいるが、それは実力からなるべくしてなった結果だと思う。

ただ、時に運は残酷なことをするもので、どう考えても理不尽な仕打ちを人に与えることがある。災害や事故に巻き込まれたり、別に不摂生でもないのに病に冒されたり。そういう話を聞くたびに気の毒に思うし、少なからずぐさりとくるものもあるが、同時にそれは、自分自身の弱さを見直すきっかけにもなる。それまで自分が抱えていた苦労や悩みなど、ちっぽけなものにすぎないのだと気づかされる。

自分にだって、いつ、そういう理不尽な時が訪れるかわからないのだ。やれる時に、やれることを、やる。最終結果がプラスマイナスゼロか、もっとマイナスになったとしても、それも実力と納得して、笑って終えられるように。

「実行力」の正体

今までに何人かの知人から、「ヤマタカさんは実行力があるよね」という意味のことを言ってもらった経験がある。

自分にそんな力があるのかどうか、僕にはよくわからない。フリーランスの身空でどうにか何冊かの本を出して、かつかつで生計を立てていることが、そんな力の証明になるとは思えない。そもそも、「実行力」というものの正体が何なのかも、僕にはよくわかっていない。

ただ思うのは、「実行力」とは自分自身の才気のみで道を切り拓く力ではない気がする。少なくとも僕の場合、ある一冊の本を作ろうとする時は、自分にできることにはとことん取り組むけれど、その何倍もの力を周囲の他の人たちから借りているし、そうしなければ本など到底作れないことを自覚している。その意味で考えると「実行力」とは、「人に後押ししてもらえる力」のことなのかもしれないと思う。

では、どうすれば、人から後押ししてもらえるようになるのだろう?

‥‥わからない。さっぱりわからない(苦笑)。でも、自分のこれまでをふりかえってみると、「力を貸してほしい」と頼む時、僕自身がどれだけの思いをその一冊に賭けているかという覚悟を、ただありのままに示してきたと思う。口八丁手八丁の交渉ごとは得意でも好きでもないし。

覚悟を示し、助力を仰ぎ、時に迷いながらも信念を持って前へ進む。それが「実行力」の正体なのかもしれない。僕も楽な方に逃げるのではなく、そういう勇気を常に持てるようになりたいと思う。

とてつもなく

「いい本」を作っても売れない、という話をよく聞く。

今の時代、「そこそこいい本」くらいでは、全然勝負にならないのだろう。「まあまあいい本」でも、たぶん厳しい。「かなりいい本」でも、報われるとはかぎらない。

でも、そこから完全に突き抜けた、「とてつもなくいい本」を作れたとしたら?

そんな簡単にはいかない、と突き放すのはたやすい。自分が持って生まれた才能の限界もわかっている。でも、自分は本当に、その限界のそのまた限界まで、全力を絞り尽くしているだろうか?

すべてを注ぎ込めば、作れるのかもしれない。とてつもなく、いい本を。もし、そんな本を作れたとしたら、その売れ行きなど、小さなことでしかないだろうけど。

今、できることを

子供の頃、自分の行手には、無限に思えるほど長い人生の時間が横たわっていると感じていた。いつかはそれが途切れることなど、想像もつかなかったし、考えもしなかった。

一般的な人間の寿命の半分ほどの時間を生きてきた今、自分の行手に横たわる時間はそれほど長くはなく、だいたい想像できる範囲だ。今は、ずっしり重いカメラバッグを担いで標高5000メートルの山の中を歩き回ったりしているが、それができる時間も、あと30年もないだろう。

もしかすると、まともな人の感覚で考えれば、行手に横たわる時間の終盤に備えて、今からあれこれ準備しておくべきなのかもしれない。でも、僕は‥‥今、できることを、めいっぱいやるにはどうすべきか、それをまず考えたい。後になって、あの時、あれをやっておけば、ああいう本が作れたのに‥‥という後悔だけはしたくない。先のことを憂うより、今の自分が出せる力を出し切りたい。

それで、どこまでやれるのか。でも、やるしかないな。