Category: Diary

似合うかどうかを決めるのは

二十代から三十代にかけての頃、着る服といえば、黒、紺、グレーがほとんどだった気がする。何が自分に似合うかわからなくて、誰が着てもほぼ間違いのない、無難な色の服ばかり選んでいた。

今も、その三色の服の割合はかなり多いけれど、それ以外の色の服も、それなりに着るようになった。同じくらい無難なカーキやオリーブグリーンはもちろん、差し色に使いやすいTシャツでは、黄やオレンジ、赤、紫などもよく着る。そうした色が自分に似合うかどうか、人からどう見られているか、今ではまったく気にしない。気が向いた時にそれを着ると、少し気分が上がるから着ている。それ以上の理由はない。

周囲の人も、ほんの少し見慣れてくれば、その服がその人らしさなのだと、しぜんと感じるようになる。似合うかどうかを決めるのは、自分自身なのだと思う。

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パオロ・コニェッティ『狼の幸せ』読了。著者の出世作となった『帰れない山』が面白かったので、この本も楽しみにしていたのだが、二つの点で期待を裏切られた。一つは、タイトルや内容紹介から受ける印象に比べると、狼が物語に関わってくる割合がかなり物足りなかったこと。確かに、人の数ある生き方の一つのメタファーとして狼が描かれているのはわかるのだが、ほとんどが人間関係にまつわる物語で、狼自体は出てこなくても構わないほどのレベルだったので、ちょっと拍子抜けした。

もう一つは、都会での生活に疲れてモンテ・ローザの麓の村に逃れてきた作家の中年男性が、同じレストランで働くようになった十歳以上年下の女性と恋に落ちる……という展開が、どうにもしんどいなあ、と感じられてしまったこと。作家である主人公は、明らかに著者自身をモデルにして描いているとわかるので、なおさら。私小説の趣の濃い作品だし、実際にそういう経緯で恋仲になった女性がいたのかもしれないが、正直、あいたたた……と感じてしまった。まあ、自分も同じ物書きで中年のおっさんであるがゆえの、同属嫌悪なのかもしれないが。

衰えていく国

スーパーに食材の買い出しに行くと、何もかも値上がりしてるなあ、と感じる。野菜や肉、卵などはわかりやすく高くなっているし、パッケージされた商品も、値上がりしてるか、内容量が減らされてるか、あるいはその両方だったりする。

僕の住んでいる西荻窪は、駅の界隈にたくさんの個人商店が集まっているのだが、閉店したまま次が決まらず、空いたままになってる物件も結構目につく。隣駅の吉祥寺は、住みたい街ランキングでトップ争いの常連だが、そんな街でも空き店舗物件があちこちにある。大手のデパートの中もスカスカで、埋められないスペースを安い衣料雑貨のワゴンセールとかで誤魔化してるところも多い。無人で、カプセルトイの機械を並べただけのところもあったり。

都心の繁華街もそうだ。原宿や渋谷のような一等地でも、かつてはお洒落なアパレルショップだった場所が、うらぶれた空き家になっている。新しいショッピングモールが次々に開業する一方で、既存のテナントビルはスカスカのまま閑古鳥。対照的に元気なのは新大久保界隈とかで、アジア各国の商店や食堂がぎっちぎちにひしめき、どこかが空いてもすぐに埋まるというが、日本人経営の店はあまり見当たらない。

近所で行きつけにしてる老舗のパン屋さんで、おひるによく買って食べていた名物のカレーパンが、ある日、1個420円になっているのを目にした時は、さすがにびっくりした。地元の人々に愛されている、良心的なお店なのだ。そういう店がそこまで値上げをしなければやりくりできないほど、今は何もかもが厳しい状況になっている。

先日、1ドルが160円台になったという経済ニュースで、日米の金利差が原因云々という記事が溢れていたけれど、それ以前に、日本円の価値が根本的に下がってしまっているのだと思う。日本という国そのものが刻々と衰退し、貧しくなっているのだ。取材で海外の国々との間を行き来していると、いろんな場面でそう感じる。日本の社会自体から、力が失われていると。

そう遠くないうちに、海外旅行などは日本人にとって、一部の富裕層に限られた娯楽になってしまうのではないかと思う。自分自身の仕事のやり方も、あらためて、いろいろ考えてみなければならないと感じている。

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石川美子『山と言葉のあいだ』読了。仏文学の研究者でもある著者が、自身がフランスで生活していた時の経験と、デュマやバルザック、スタンダールといった古今の作家たちにまつわるエピソードを絡めて書き綴ったエッセイ集。静謐で清々しい文体で、読んでいて心が落ち着く。とりわけ印象に残ったのは、マダム・ミヨーにまつわるエッセイで、数奇な運命の巡り合わせに滲む著者の思いに、胸を打たれた。

出航

五月に入ってから、ほぼずっと、一人で家に籠って、新しい本の制作に集中していた。

土曜までに各章のプロットをまとめられたので、昨日の日曜から、序章の執筆に着手。3000字ちょっとの短いパートだが、ゆっくり、慎重に書き進めていって、昨日のうちに書き上げることができた。今日はその部分の原稿を読み返しての推敲作業。

長篇の紀行文に取り組むのは『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』以来で、実際に書きはじめてみると、長い旅が始まった時の高揚感に似た気分を感じる。生まれて初めての海外一人旅の初日、神戸港から出航した船の舷側で、航跡の向こうに遠ざかっていく陸地を見ていた時のような気持ち。

あの時の船旅と違うのは、今の自分が乗っている船は、自力でオールで漕ぎ続けないと、どこにも辿り着けないということだ。あと一年、難破しないように、頑張ります。

ポール・オースターが教えてくれたこと

家にある自分の本棚を眺めてみると、同じ作家で本が一番多いのは、開高健。次が同数で、アーシュラ・K・ル・グィンとポール・オースターだった。

ポール・オースターのことを知ったのは、他の多くの日本人読者と同じく、映画「スモーク」を観たのがきっかけだった。ブルックリンを舞台にした洒脱な映像と思いがけない展開の物語、そして最後の『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』の見事さにすっかりやられてしまった僕は、「ニューヨーク三部作」と呼ばれるオースターの初期の作品群(『シティ・オブ・グラス(ガラスの街)』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)を入口に、彼の作品をかたっぱしから読みまくった。『ムーン・パレス』の流麗な書き出しには、今もほれぼれとさせられる。その後も『偶然の音楽』『リヴァイアサン』『ミスター・ヴァーティゴ』など、柴田元幸さんの訳によるオースターの新刊が出るたびに、本屋でハードカバーを買い求めて読んでいた。

昨日の昼、ポール・オースターが亡くなったというニュースを知って、自分でも思いがけないほどショックを受けているのを感じた。それは、彼の書いた作品が、僕自身の二十代から三十代にかけてのうだつの上がらない日々の中で、他に置き換えることのできない存在であったからだと思う。特に初期の作品群で、「書く」という行為そのものをこれ以上ないほど深く深く掘り下げていった彼の文章は、自分自身が「書く」という行為とどう向き合うべきなのか、考えさせられるきっかけにもなった。その答えは、いまだに出せていないような気もするけれど。

オースターの作品と出会ってなかったら、僕の書く本は、今とは全然違うものになっていたかもしれないし、そもそも本を書くこと自体に取り組んでいなかったかもしれない。ふりかえってみると、そのくらい重要なきっかけであり、大きな存在だった。まだオースターの作品に触れたことのない人には、ぜひ読んでほしい、と思う。

新しい本へ

4月7日(日)のタシデレでのイベントと、12日(金)の三鷹ユニテでのトークイベント、それぞれ盛況のうちに、無事終えることができた。昨年末に発売した『ラダック旅遊大全』絡みのイベントは、とりあえず全部終わった……はず。先月中旬に帰国して以来、特に7日(日)のイベントの準備(写真のRAW現像をしたり、ムービーを作ったり、スライドを作ったり)がかなりプレッシャーだったので、ほっとしている。

これから始まるのは、次への助走だ。新しい本の準備は、僕自身の中ではすでに始まっている。今度もまた、少なくとも一年はかかる長距離走になるのは確実だし、うまく書き上げられる保証はどこにもない。でも今、むちゃくちゃ楽しみだし、燃えてもいる。素材は間違いなく、最高だ。あとは努力と工夫次第。自分史上最高傑作を、何としても作ってみせる。

とりあえずその前に、目の前に山積みになりつつある国内案件の数々を、何とかせねば……。

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ジム&ジェイミー・ダッチャー『オオカミの知恵と愛 ソートゥース・パックと暮らしたかけがえのない日々』読了。オオカミの群れの生態の研究とドキュメンタリーの撮影のため、ソートゥース山地の麓の広大な敷地で、子供の頃から世話をしたオオカミたちの群れ(パック)を観察し続けた六年間の記録。野生のオオカミの撮影記録と勝手に思い込んでいたのだが、これはこれで、人の手を介した方法でしか知り得なかったであろうオオカミたちの習性や行動が紹介されているので、読み応えがある。オオカミについてあらためて知りたいと思っていたところ、家でこの本が積ん読になっていたので、読めてよかった。本編の一番最後に掲載されている写真が、とてもいい。