Category: Diary

土曜と日曜

先週の土曜と日曜は、ひさしぶりに二日続けての完全な休日。最近、よみうりカルチャーでの講師の仕事があったりして、なかなか休めなかったのだ。

土曜は昼に代々木上原のhako galleryに出かけて、鮫島亜希子さんと谷口百代さんのインドのおべんとうイベントへ。ダッバーワーラーの仕事ぶりを追った写真展もよかったし、現地のレシピで作ったというターリーもおいしかった。夜はコノコネコノコでこれまたおいしいごはんをいただいて、すっかりはらぱんの一日。

日曜は、食材の買い出しに近所に出かけた以外は、ずっと家にいた。ラジオを聴いたり、本を読んだり、コーヒーをいれてフルーツケーキを食べたり、夕飯にベンガル風の魚と野菜のジョルを作ったり。ただそれだけだったのだけれど、何だかとても豊かな時間を過ごせたような気もする。

人生には、余裕が、休みが、必要だ。しかしまあ、今日からはまた働かねばである。

ペッパーくん

Pepper(ペッパーくん)は、2014年6月5日に誕生した身長121cmの人型ロボットです。音声や胸のタブレットを通じてのやりとり、顔認識・感情認識などの多彩なセンシング機能を搭載しており、人を惹きつけ笑顔にするそのキャラクターで、ご家庭や商業施設、教育施設、介護施設、オフィスなどさまざな場所で活躍しています。
(ソフトバンクのサイトより)

うちから徒歩数分の場所に、ソフトバンクのショップがある。用事がないので中に入ることはないが、通りに面してガラス張りの店の前を、毎日何度か行き来する。

店のドアから入ってすぐのところに、子供くらいの大きさの白いロボット、ペッパーくんが立っている。足はないが、頭と左右の手は人間の形状に近く、胸には液晶モニタがついている。顔の表情は、あるようでないというか、目の瞳孔が常に開いているようで、底なしの虚無感が漂っている。

以前、携帯の契約内容の変更か何かで店に入った時、ペッパーくんは別のお客さんのお子さん二人と、両手を指先まで細かく動かしながら、今二つ三つ噛み合ってない感じのやりとりをしていた。別のある日に店の前を通りがかった時には、周囲に誰もいないのに、ペッパーくんは斜め上を見上げながら、両手を宙でずっと動かしていた。誰と対話してたのだろう。彼にだけ、その人が見えていたのだろうか。

また別のある日、夜に店の前を通りがかると、薄明かりの中、両手を下げてがっくんとうなだれたペッパーくんが立ち尽くしていて、ぎょっとしたこともあった。

最近、近所のそのペッパーくんに、異変が起きている。顔はかろうじて正面を向いているが、背を丸め、両手をだらんと下げ、モニタは消えていて……動いていないように見える。コショウしたのだろうか。ペッパーなだけに……。

動くのをやめたペッパーくんは、通りから見えづらい柱の影に定位置を移され、力なく両手を下げたまま、開いた瞳孔で、今日も虚空を見つめている。

あと何度、桜を

数日前からの雨は、満開になったばかりの桜の花を、早々と散らせてしまったようだ。今日、近所の小さな公園を通りがかった時も、桜の大木の下に、薄紅色の絨毯ができていた。マンションの隣の角地にある桜は、もうすっかり葉桜だ。

今になってみると、先週の火曜と水曜のあたりが今年の花見には最善だったようで、うちも、火曜日の春分の日に花見に行っておいてよかったと思っている。初めて目黒川の桜並木を見に行ったのだが、意外とのんびりと川沿いを散策できて、八分咲きくらいの桜を堪能することができた。

僕ももう、ええ歳こいたおっさんなので、毎年桜を見るたびに、あと何度、こうして桜が咲くのを眺めることができるだろうか、と思ってしまう。そこそこ普通に生きて、あと20回くらいか。めいっぱい粘って、あと30回? 逆にもっと少なくなる可能性も、もちろんある。いずれにせよ、残された機会は、そんなに多くはない。

桜の花に感じるセンチメンタルな気持には、そういう残された時間についての気持も、かなりの割合で含まれているのだと思う。

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今枝由郎・海老原志穂訳『ダライ・ラマ六世恋愛詩集』読了。ダライ・ラマ六世の詩というと、「白い鶴よ、翼を貸しておくれ……」の詩以外はあまりよく知らなかったのだが、この本に収録された100篇の詩を通読してみると、何というか……ほんとにどうしようもないけれど、愛し愛されずにはいられなかった、魅力的な方だったのだな、と。チベット仏教の最高指導者に選ばれながら、自ら僧位を返上して還俗し、女性を愛し、放蕩三昧の日々を過ごし、若くしてこの世を去った、歴代の中でもっとも愛されたダライ・ラマの一人。我々にもわかりやすく、小気味よく読めるように配慮された日本語訳も労作だし、海老原先生によるチベット詩の詳細な解説も興味深かった。そして蔵西先生の装画が、超美麗……。

違いを生むもの

同じ銘柄のビールを置いているのに、「あれうまそうだなあ、おいしいなあ」と感じる飲み屋もあれば、「別に飲みたいとも思わないなあ、飲んでみたけど、こんなもんか」と感じてしまう飲み屋もある。同じ本を置いているのに、「これよさそうだなあ、買おうかな」と感じる本屋もあれば、「何かピンとこないなあ、買わなくてもいいか」と感じてしまう本屋もある。

同じ場所で同じ風景や人を撮っているのに、「いい写真だなあ、ぐっとくるなあ」と感じる写真もあれば、「こう撮りゃいいんだろと狙ってる感あるなあ」と感じてしまう写真もある。同じ相手に取材して同じテーマの話を書いているのに、「面白い話だなあ、読み返したいな」と感じる文章もあれば、「書いてる人、自分に酔ってるだけなんじゃないかな」と感じてしまう文章もある。

お店にしろ、写真とか文章とか、ほかのさまざまなことにしろ、素材にあたる部分が同じでも、届け手によって明らかな違いが生じることは、よくある。その違いは、それぞれの届け手の技量の差によるものだけではない気がする。丁寧さとか、根気強さとか、まっすぐな気持とか……そういうまごころのようなものも、確かに作用している、と僕は思う。

丁寧で一生懸命でも、実力が伴っていなければクオリティに問題が出るし、テクニックや経験は十分にあっても、誠実さが伴っていなければ信頼関係は生まれない。技量とまごころは表裏一体で、それぞれを磨き上げ続けてこそ、誰かに喜んでもらえるものを届けられるようになるのかもしれない。

ふと思ったことを、つらつらと書き連ねてみた。

ゴールポストが後ずさり

先週あたりから、新しい本の原稿の執筆を再開。日々黙々と書き続けている。

去年の晩秋から書きはじめたこの本の原稿、途中タイ取材とかで中断期間はあったのだが、これまでにどのくらい書いてきたのか計算してみると、80ページだった。予定している総ページ数の、だいたい三分の一くらい。たぶん。おそらく。

言葉尻があやふやなのは、最終的に全体で何ページくらいの本になるか、まだはっきりしていないからだ。少しずつ書き進めて様子を見ながら、台割もその都度調整しているので、一つの章だけでもページ数がにゅるっと増えてしまったりしている。もちろん予算の都合もあるので、野放図にページを増やしまくるわけにもいかないのだが、内容的に妥協はできないし。嗚呼。

総ページ数という名のゴールポストが、今日もじわじわと後ずさりしていく。

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赤染晶子『じゃむパンの日』読了。42歳の若さで逝去された芥川賞受賞作家の方が遺したエッセイ集。短いセンテンスでぽんぽんと切れ味よく綴られた文体と、ささやかなものごとに対する視点の意外さがくせになる面白さ。でも、ふと気づくと、どことなく哀しい気配もうっすら漂っていて。多くの人に読み継がれてほしいな、と思った。