「ライク・サムワン・イン・ラブ」

アッバス・キアロスタミ監督が日本を舞台にした新作を撮る。一昨年の秋、そのニュースを知った時は、動悸が早まったのが自分でもわかるほど心が躍った。イラン人である彼が、日本の俳優とスタッフを起用して作った、全編日本語の映画。その「ライク・サムワン・イン・ラブ」を、この間観てきた。

元大学教授の老人タカシが、亡き妻に似た女子大生アキコを、デートクラブを通じて自宅に呼ぶ。タクシーで彼の家に向かう道すがら、アキコは田舎から出てきた祖母を駅に置き去りにしたことを、今の自分が抱えている負い目とともに悔やんでいる。一夜が明け、アキコを彼女が通う大学まで車で送ったタカシの前に、彼女の恋人のノリアキが現れる。アキコの行動をすべて把握していなければ気がすまない嫉妬深さを持つノリアキは、タカシのことを彼女の祖父だと勘違いする‥‥。

‥‥といったあらすじらしきものを書くことは、この作品の場合、あまり意味がないのかもしれない。起承転結の整った物語というより、三人が出会ったわずか一日足らずの時間をスパリと切り取ったような映画。エラ・フィッツジェラルドのけだるい歌に乗って流れる時間は、嘘と真実が交錯する中、やがて予想もつかない渦を巻き、唐突に途切れる。観終わった後には、何とも言いようのない不思議な感触が残る。それでも、観客にはわかるのだ。三人の時間は、人生は、これからも続いていくのだと。

この映画では、固定カメラでの長回しや移動中の車内のシーンの多用など、キアロスタミらしさが存分に発揮されている一方で、イラン人の監督が撮ったとはとても思えないほど、「日本らしさ」が鮮やかに描写されている。ざわめきの絶えないレストラン、タクシーの車内、街の交差点、人々のとりとめのない会話‥‥。日本人である僕たちですら気付かず見過ごしていた何かを、キアロスタミはその繊細な感性で確かに捉えていた。

彼が「日本映画」を撮ってくれて、本当によかった、と思う。

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