昨日の夜、沢木耕太郎さんがラジオで、旅の運についての話をしていた。たとえば旅先でトラブルに遭遇して、めためたな状態の時でも、そこにちょっとでも面白がれる部分を見つけられたら、それはより濃い体験となって、次につながる運を引き寄せるのではないか、と。
それを聞いて、今年のタイ取材の時の出来事で、まだ書いてなかった話があったのを思い出した。まあ、どうということのない話なんだけど。
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その日、僕はミャンマーとの国境近くにあるサンクラブリーという町から、丸一日がかりで、はるか遠くの首都バンコクに向かっていた。まだ暗いうちに、じっとり漂う濃霧の中をバイクタクシーで宿から町の中心に向かい、カンチャナブリー行きのミニバスに乗った。バンコクに行くには、カンチャナブリーで別のバスに乗り換える必要がある。
3時間半後にカンチャナブリーのバスターミナルに着き、ミニバスを降りて構内を歩いていると、小さな机の前でヒマそうに座っていたおばちゃんが、僕に声をかけてきた。
「ユー! どこに行くんだい?」「‥‥バンコク」「うちのバスだ! おいでおいで!」「‥‥いつ出発するの?」「えーっと、30分後!」
あやしい英語でやたら陽気に話しかけてくるおばちゃんの誘いに、まあいいか、と、その後ろに停車していたバスに乗り込む。30分後に出発すると言っていたバスは、案の定、1時間以上も経ってからようやく動き出した。
しばらく乗ってるうちに、これはハズレを引いてしまったな‥‥と思った。カンチャナブリーからバンコクまでのバスにはいくつか種類があるが、僕が乗ったのは一番時間がかかるバスだったらしく、途中の小さな町でいちいち停まりながら、のったりくったりとしか進まないのだ。それでもいつかはバンコクに着くのだろうが、その日僕は、宿を出る前に食べたレーズンパン一つと、バッグに入れておいたチョコレートしか口にしていなかったので、腹が減って仕方がなかった。
周囲の街並が少しずつ都会めいてきて、バンコクの周辺部に近づいてきたかな、でもまだしばらくかかりそうだな‥‥と思っていると、一番前の座席にいた例のおばちゃんが僕に声をかけてきた。
「ユー! バンコクのどこに行きたいの?」「ナショナルスタジアムのあたりに‥‥」「???」「えーと‥‥とりあえず、BTS(スカイトレイン)に乗れれば何とか‥‥」
すると、おばちゃんは満面の笑みで「オーケー! ピーティーエスだね! まかせとき!」と言った。いや、BTSなんだけど。
まあ、このバスも最終的にはバスターミナルに着くだろうから、そこからタクシーを拾えば、目指す宿まで何とか行けるはず‥‥。そんなことを考えていると、おばちゃんが急にまた立ち上がって、「ユー! こっちにおいで!」と大きく手招きした。
「ユーはここで降りるんだよ!」「?!」「後ろから来てるあのバスに乗りな! そしたらピーティーエスに行けるよ!」「いや、BTS‥‥」
おばちゃんのバスはバス停も何もない路上で急に停まり、予想外の展開に面食らう僕を残して、そのまま走り去ってしまった。途方に暮れる間もなく僕は、言われたままに、すぐ後ろから近づいてきたオレンジ色の市バスに手を挙げ、荷物を担いであたふたと乗り込んだ。何でこんなところで、急に外国人が?という、乗客たちの冷たい視線。市バスの女性車掌さんが近づいてきて、「あんた、どこに行きたいの?」と聞く。
「えっと‥‥ここはどこなんですか?」
あきれたように僕を見る車掌さんと乗客たち。でも、本当にわからないんだから仕方ない。ここはまだ、ガイドブックのバンコク折込地図にも載っていないほど、街外れのはずなのだ。自分が今どこにいるのか、どこに行けばいいのかもわからないまま、いきなり路上でバスを降ろされ、行先も知らない市バスに乗せられて、この後どうすればいいのか、見当もつかない。
「‥‥このバスに乗れば、BTSに乗れる場所に行けるはずだと言われたんですけど‥‥」
すると市バスの車掌さんは、しばらく眉をひそめて考えた後、「13バーツ」とだけ言った。
13バーツの切符を買い、荷物を両手に抱えて座席に座ったまま、どうなるんだろう‥‥と思いながらしばらく市バスに揺られていると、車掌さんが「あんた、ここで降りなさい!」と僕に言った。またしても、ここがどこなのかもわからないまま、市バスを降りる。すると、一緒に降りた若い女の子が前方を指さしながら「あっちがBTSよ!」と言った。
その女の子の指さす方向に向かって歩いていくと、本当に、BTSシーロム線の西端の駅、バーンワー駅があった。あの陽気でアバウトなバスのおばちゃんの指示は、正しかったのだ。そこからBTSに乗ってしまうと、バンコク特有の渋滞に悩まされることもなく、目的のナショナルスタジアム駅まで一気に行くことができたのだった。
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こういう類の出来事は、ある程度旅をしている人なら、結構あちこちで出くわしているのではないだろうか。ハチャメチャな展開に途方に暮れることになっても、めげることなく、最後の最後に運を引き寄せられたら、それはその人にとって価値のある旅になるのではないかと思う。
だから、面白いんだよな、旅は。