二十代半ばの頃、僕は、とある旅行情報誌を制作している編集プロダクションで期間限定のアルバイトをしていた。当時の仕事の内容は、いろんな旅行会社から送られてくるディスカウント航空券の情報を一覧表に打ち込み、それを何度も読み合わせして校正してから、印刷所に入稿するというものだった。
ある日、その編プロの社員の一人が、「山本君にやってもらいたい作業がある」と持ちかけてきた。雑誌の各ページの欄外に小さな字で載せている、読者からハガキで寄せられる世界各地のちょっとした旅行情報のデータを整理してほしいのだという。
「わかりました。で、読者からのハガキはどこですか?」と聞くと、その人は僕に、ハガキの代わりに旅行業界誌のバックナンバーを何冊か差し出した。
「この雑誌から適当に情報を拾ってさ、読者のコメントっぽく作っといてよ。文章を書く練習にもなるでしょ?」
読者からのハガキなんて、編集部には一枚も届いていなかったのだ。十秒くらい考えた後、僕はこう返事した。
「すみません。その作業、僕にはできません」
「え? なんで?」
「僕は、そんな嘘は書きたくありません」
その人が怒るのを通り越して、口をぽかんと開け、呆れたように僕を見ていたのを憶えている。
あれからずっと、僕はどうにかこうにか出版業界の端っこにしがみつき、フリーランスで本作りの仕事に携わってくることができた。それはきっと、あの時のように「やりたくないことは、やらない」というスタンスを守ってきたからだと思う。
誤解されたくはないのだが、僕はそんなに仕事を選り好みする方ではない。それを必要としている人がいるのなら、地味で単調に思える仕事でも引き受ける。ギャラに関しても、最低賃金法を下回るレベルでなければ別にとやかく言わないし、どんなにタイトなスケジュールでも、それで依頼主の苦境が救えるのなら、できるかぎりのことはする。
でも、依頼内容があまりにも自分の信義に反していたり、最低限のクオリティを確保できないほどスケジュールやギャラがムチャクチャな条件だったりすれば、僕はきっぱり「できません」と答えることにしている。たとえ、拒否することでクライアントを一つ失ったとしても、まったく怖くはない。どのみち、そんな理不尽な要求をしてくるクライアントとの付き合いは長続きしないからだ。それよりも、理不尽な要求を受け入れて、自分が納得できないクオリティの仕事を手がけてしまう方がよくない。そんな仕事で、自分で自分の価値を貶める必要はない。
どんなに地味でも、自分が納得できるクオリティの仕事を一つひとつ積み重ねていれば、必ずそれを認めてくれる人が現れる。互いに信頼し合えるチームが自然とできていく。やりたくないことはやらないというのが、結局、フリーランスとして生き残っていく一番の秘訣ではないだろうか。