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『雪豹の大地 スピティ、冬に生きる』

『雪豹の大地 スピティ、冬に生きる』
文・写真:山本高樹
価格:本体2200円+税
発行:雷鳥社
A5変形判 256ページ(カラー84ページ)
ISBN 978-4-8441-3813-6
配本:2025年4月23日

書き下ろしの長編紀行としては、『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』以来、5年ぶりとなる作品を、まもなく上梓します。タイトルは『雪豹の大地 スピティ、冬に生きる』。インド北部の辺境の地、スピティで、野生の雪豹の撮影に取り組んだ日々の記録です。

全世界でも8000頭に満たない数しかおらず、険しい山岳地帯に生息しているため目撃することすら困難なことから「幻の動物」とも呼ばれている、野生の大型肉食獣、雪豹。ふとしたきっかけと成り行きから、彼らの撮影に取り組むことになった僕は、厳寒期のスピティで生きる雪豹をはじめとする野生の動物たちや、彼らの傍で暮らすスピティの人々と、ひと冬をともに過ごしました。その日々の中で僕が目にしたのは、写真だけでは到底伝え切ることができないほど、稀有で生々しく、そしてかけがえのない光景でした。

標高4200メートルの極寒の高地で、巡り巡る命を、見つめ続けた日々の物語。一人でも多くの方のもとに届くことを願っています。

時間差同時進行

なんだかんだで、せわしない日々が続いている。

今春に刊行される予定の新刊その1は、初校を戻し終え、来週からは外部の校正者さんを交えての再校のチェック作業が始まる。印刷所に入稿するまでに、印刷で使う写真のデータや色見本も準備しなければならない。発売に合わせてのイベントや展示、フェア、ノベルティなどの準備もある。

新刊その1の作業が小康状態の隙間時間は、今秋に刊行される予定の新刊その2の作業。原稿はほぼ仕上がっていて、全体を通してのリライト作業に移っているが、推敲にはもう少し時間をかけたい。こちらも台割の策定や写真の準備(データだけでなく紙焼きも印刷原稿に使う)など、いろいろやらねばならないことがある。でも、残された時間はそれほどない……。

その他にも、今夏のラダックツアーの準備や、企業案件や大学案件の書き仕事などが入ってきていて、いろんなものが時間差で同時進行している状態。スケジュールやTO DOをうまく管理しないと、うっかり何かを忘れてしまいそうな気がする。用心せねば……。

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ポール・オースター『4321』読了。毎晩、寝る前に少しずつ読み進めて、途中二度ほどフヅクエでも集中して読んだけれど、800ページ、88万字もあるこの大作、じっくり読んでいくと、やはり時間がかかった……。

ささやかな偶然の連鎖によって枝分かれしていく、アーチボルト・ファーガソンの四つの人生。どれもありえたかもしれないそれらの人生は、濃密な筆致で描き出される1960年代のアメリカ社会を舞台に、滔々と語られてゆく。この本の主人公は、四つのバージョンのファーガソンであると同時に、今も数多くの宿痾を抱えるアメリカという国の現実そのものでもあったのかなと思う。

とりあえずの仕事納め

年の瀬もだいぶ押し迫ってきたが、おかげさまでどうにか、仕事納めと呼べそうな状況にまで漕ぎ着けた。現時点で納品できるものは全部送ったし、今から急に何か依頼が来ることもないだろう。

今年の春先に着手して、十月末に最後まで書き上げた新刊の草稿は、版元のご配慮のおかげもあって、二カ月近くの時間をかけて推敲とリライトを施したので、かなり完成度を高めることができた。それらの原稿素材一式も無事に納品することができたので、ほっとしている。年明けからはいよいよ、編集作業が本格的に始まることになる。

その一方で、来年出す予定のもう一冊の新刊の作業は、十二月が私事でかなりバタバタしていた影響で、滞ったままだ。書き下ろし分が結構あるのだが、実はまだ全然……(汗)。これから、ほかの仕事や確定申告準備の合間を縫って、なるはやで書き進めなければならない。来年、頑張らねば……。

そんなわけで、仕事納めといっても、まあとりあえず、といった程度。たぶん年末年始も、何かしら、原稿を書いてるんだろうな。

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朱和之『南光』読了。二十世紀初頭に台湾の客家の名家に生まれ、留学先の日本でライカを手にしたのを機に写真家となった鄧騰煇(鄧南光)の生涯と残された写真をモチーフに、作家の朱和之が書き上げた小説。鄧南光と彼の周囲の人々の実際の生涯をなぞりながら、細かな部分を想像力で埋めていった感じの作品で、鄧南光が生きたそれぞれの時代の空気が、モノクロームの写真に彩色を施したように、文面に鮮やかに甦っていた。

八木清『ツンドラの記憶 エスキモーに伝わる古事』読了。探検家のクヌート・ラスムッセンが、二十世紀初頭に極地を探検しながら採録した現地の先住民に伝わる伝承の数々の中から、八木さんが選び抜いて和訳したものを、八木さんが撮影した写真とともに収録した一冊。読めば読むほど底知れない深淵を感じさせる、先住民の言葉たち。八木さんによる写真も、ひっそりと何気ないようでありながら、揺るぎない奥深さがある。美しい本だった。

抜かりなく、前へ

先週の月曜と、今週の月曜は、来年出す本についての打ち合わせがあった。それぞれ別の出版社から出す、別の本の。

そう、来年は、前半に一冊、後半にもう一冊、合計二冊の新刊を出す。前半の本は、今まさに原稿の推敲作業中で、年明けから春頃までかけて編集作業をして、連休前くらいには世に出す。後半に出す本は、すでにある程度は書けているのだが、これから一冊目の本の作業の合間に、足りない分を書き足して、六月頃から編集作業に入り、秋頃に出す。つまり2025年は、ほとんど息つく暇もなく、ひたすら本を作り続ける年になる。

きっと、いろんな苦労やつまずきがあって、大変な思いもするんだろうけど、それでも、自分が一番好きな仕事である本づくりに、首元までどっぷり浸れるのは、嬉しいし、楽しみでもある。順調に進められているからといって油断していると、思わぬポカミスをやらかして一生後悔するようなことになりかねないので、抜かりなく、一歩ずつ、前へ進んでいこうと思う。

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劉慈欣『三体』『三体II 黒暗森林(上)(下)』『三体III 死神永生(上)(下)』、文庫本ですべて読了。いやあ、途方もない……本当に途方もないスケールまで拡がっていく物語だった。最新の物理学や宇宙理論に関する豊富な知識と、奇想天外にも思える奔放なアイデアによって、壮大でありながら恐ろしく緻密な物語が組み上げられている。最初の巻に出てくる三体ゲームのくだりを読んでいても感じたが、この三部作自体、僕も昔やったことのあるシムシティやシムアースなどのシミュレーションゲームのように、人間世界と三体世界の歴史を鳥の目線でシミュレートした物語に思えた。都市や地球どころか、太陽系、銀河系、宇宙、次元、時間までも、最終的に織り込まれていくシミュレーション。誰かの思いも、命も、瞬く間に弾けて消え失せてしまう、儚さと虚しさ。それもまた、この世に生きとし生けるものの定めか。

旅立つ前の憂鬱

気がつけば、二週間後には、またインドだ。ほんの四カ月前まで、二カ月もインドにいたのに、またしても。何だか茫然としてしまう。

今度の滞在は、約六週間。旅の後半は、勝手知ったるラダックでのツアーガイド業務なのでまだ気が楽なのだが、旅の前半は、灼熱と混沌のデリーから始まって、未踏の地への三週間弱の旅になる。どうなることやらわからないが、楽な道程ではないことだけはわかっている(苦笑)。

で、八月中旬にインドから日本に帰ってきて、そのまた十日後には、アラスカに行く。期間は十日間で、これまたどうなることやらわからない旅なのだが、楽ではないことだけはわかっている。まず、滞在する場所に、人間がいない……(苦笑)。

そんなわけで、足かけ二カ月くらいの間、ほぼずっと旅に出ることになっている。

目的地がそういう大変そうな場所だからというわけでもないのだが、長い旅に出る前は、どことなく、憂鬱な気分になる。東京の自宅での、せわしないけれどそれなりに快適な日々から、毎日何が起こるかわからない、何が起こってもおかしくない世界の中へ、文字通り、突っ込んでいく。しんどいなあとも思うのだけれど、そうやってぼやいてる自分を、どこかで面白がっている自分もいる。快適至極な旅に憧れもするけれど、酔狂な旅だからこそ自分らしくいられるのかもしれない、ということもうっすら自覚している。

仕方ない。そういう生き方を、選んでしまったんだから。

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ポール・オースター『写字室の旅/闇の中の男』読了。前に買ってはいたが未読だった本を、オースターの逝去を機に手に取った。もとは別々の作品として発表された二冊が、のちに一冊にまとめられたものだという。『写字室の旅』は、密室に閉じ込められて監視されている老人が、かつて彼が書いたと思われる物語の登場人物たち(そして彼らはオースターの作品の登場人物たちでもある)の訪問を受けて……という、非常に凝った構造の物語。『闇の中の男』では、かつて著名な書評家だった老人が、夜に自室で眠れないまま、内戦状態に陥ったアメリカを舞台にした物語(その中で彼は、物語の命運を握る者として暗殺の標的にされる)を思い描いたり、亡き妻や近しかった人々への追憶に思いを馳せたりする。どちらも、物語の登場人物が実在化して書き手自身に関わってくるという図式は共通している。それらの書き手や登場人物たちはすべて、オースターの作り出した存在でもある。

終盤に書かれていた次のくだりは、長きにわたって常に創作に身を投じ続けていた、オースター自身の独白でもあるのかな、と思う。
「三十五、三十八、四十、あのころはなんだか、自分の人生が本当に自分のものじゃないみたいな気がしていたんだ。自分が真に自分の中で生きてこなかったような、自分が一度も現実だったことがないような。現実ではないがゆえに、自分が他人に及ぼす影響もわかっていなかった。自分が引き起こしうる傷も、私を愛してくれる人たちに自分が与えうる痛みもわからなかった。」