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ラダックの夏から、日本の夏へ

夏のラダックでの約一カ月の滞在を終え、昨日の昼過ぎ、西荻の自宅に戻ってきた。

帰りの飛行機は、レーからデリーまでは問題なかったものの、デリーから成田までは、出発は二時間遅れるわ、機内の全座席のモニタが故障で動作しないわ、ドリンクなどの冷蔵庫も壊れてたのか缶ビールが常温だわ、トイレも一室閉鎖されてるわで、いろいろ大丈夫なのかと心配なフライトでの帰還となった。地味にストレスの溜まる旅程だったが、とりあえず生きて戻れて、ほっとしている。

エアコンいらずで過ごせたラダックの夏から、デリーよりも灼熱の日本の夏にいきなり放り込まれたので、身体がまだびっくりして、なかなか順応できないでいる。これは、洒落にならない暑さだなあ……デチェンたちには「インドと違って、日本にはデング熱はないんだろ? だったらよっぽどましだよ」と慰められはしたが。

ラダック滞在での疲労は正直全然大丈夫なのだが、灼熱の日本の夏にアジャストすべく、しばらくはゆっくり身体を慣らしていこいうと思う。しかし、順応できるかな……はたして……。

紀行文講座を終えて

午前中、八王子で紀行文講座の第二回を担当。どうにかつつがなく終えることができたように思う。これで、錦糸町、北千住、八王子の三カ所で開催してきた紀行文講座は、すべて終了。自分で提案した企画ではあったけれど、肩の荷が下りて、ほっとしている。

去年、大手町で集中開催したラダック講座と違って、各センターで分散して開催される形になった今回の講座では、予想外の出来事が多かった。たとえば、課題として短い紀行文をテキストとメールで提出するように受講者の方々にお願いしていたのだが、パソコンで文章を打ってメールで送信するという作業自体に馴染みのない年配の受講者も少なからずいらっしゃるということは、現場でスタッフの方々に聞いて初めて知った次第。その方々には手書きの原稿を封書で送っていただいて、それを自分の手元で全部テキストに打ち直すことになった。それ以外にも、正直、面食らうような出来事もいくつかあって、何事も、やってみないとわからないものだなあと感じた。むつかしい……。

来年以降も続けてほしいというご要望も複数の方々からいただいて、ありがたいことだなあと思う一方で、そもそも来年は自分があまり日本にいなさそう(苦笑)という事情もあり、単純に同じような形で紀行文講座を継続するのは、難しいかな、とも感じている。僕のような人間が教えられるライティングスキルを具体的に必要としている人に、もう少しだけ対象を絞った方がいいのかもしれない、とも思うし。あとは、オンライン受講の体制の見直しや、アーカイブ受講を可能にすることとか、そもそもどういう組織体制のもとでやるのか(自前でやるという選択肢も含めて)、今回の反省を踏まえて考えねば、と思っている。

ただ、その前に、僕自身が、文章にしても写真にしても、もっともっとスキルアップしなければならないとも思う。現状で満足していてはダメだなと。もっと、うまくなりたい。伝えたいことを、より伝えられるようにするために。

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トマス・エスペダル『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術』読了。かなり期待して手に入れた本だったのだが、なかなかに難解で……。特に前半から中盤にかけては、読み解くのに苦労したというか、理解しきれないまま読み進めていた感がある。完全なノンフィクションの紀行文ではなく、フィクションを織り交ぜつつ、自伝やエッセイや詩などを組み合わせた複雑な仕立てにしているのは、ブルース・チャトウィンの影響も少なからずあるのかもしれないが、少なくとも僕は、チャトウィンの作品ほどには没入できなかった。読み手にも、それなりの知識と読解力が必要な作品なのだと思う。

自然満喫


先週後半になってようやく仕事が少し落ち着いてきたので、金曜は早起きして、陣馬山から高尾山まで縦走してきた。半年ぶり。

陣馬山から高尾山までのルートでは、途中の各ポイントでの通過時間を以前にメモしておいたのだが、その後、何度歩いても、その時間からずれることはほとんどない。意識しているわけではないが、いつも同じ速度で歩いている。もっとも、同じ歩行速度でも、その時々の体調によって「今日はラクだなあ」という時もあれば「今日は体がなまってるな……」という時もある。今回は、だいたいいつも通りの平均的な感触だった。

しっとり湿った土を踏みしめながら、新緑の木立の下を歩くのは、やっぱり心地いい。身体の中に澱んでいたもの……疲れとか、ストレスとか、そういう澱みを、すっかり入れ替えてリフレッシュできたような気がする。

高尾山から稲荷山コースを下っていく途中、一匹のタヌキに遭遇した。最初から最後まで、ほんとに自然満喫の一日だった。

あと何度、桜を

数日前からの雨は、満開になったばかりの桜の花を、早々と散らせてしまったようだ。今日、近所の小さな公園を通りがかった時も、桜の大木の下に、薄紅色の絨毯ができていた。マンションの隣の角地にある桜は、もうすっかり葉桜だ。

今になってみると、先週の火曜と水曜のあたりが今年の花見には最善だったようで、うちも、火曜日の春分の日に花見に行っておいてよかったと思っている。初めて目黒川の桜並木を見に行ったのだが、意外とのんびりと川沿いを散策できて、八分咲きくらいの桜を堪能することができた。

僕ももう、ええ歳こいたおっさんなので、毎年桜を見るたびに、あと何度、こうして桜が咲くのを眺めることができるだろうか、と思ってしまう。そこそこ普通に生きて、あと20回くらいか。めいっぱい粘って、あと30回? 逆にもっと少なくなる可能性も、もちろんある。いずれにせよ、残された機会は、そんなに多くはない。

桜の花に感じるセンチメンタルな気持には、そういう残された時間についての気持も、かなりの割合で含まれているのだと思う。

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今枝由郎・海老原志穂訳『ダライ・ラマ六世恋愛詩集』読了。ダライ・ラマ六世の詩というと、「白い鶴よ、翼を貸しておくれ……」の詩以外はあまりよく知らなかったのだが、この本に収録された100篇の詩を通読してみると、何というか……ほんとにどうしようもないけれど、愛し愛されずにはいられなかった、魅力的な方だったのだな、と。チベット仏教の最高指導者に選ばれながら、自ら僧位を返上して還俗し、女性を愛し、放蕩三昧の日々を過ごし、若くしてこの世を去った、歴代の中でもっとも愛されたダライ・ラマの一人。我々にもわかりやすく、小気味よく読めるように配慮された日本語訳も労作だし、海老原先生によるチベット詩の詳細な解説も興味深かった。そして蔵西先生の装画が、超美麗……。

本屋が消えていく

昼、渋谷の映画美学校試写室へ。紹介記事を書く予定の映画の試写を見る。

終わった後、本屋に寄りたくなったのだが、ジュンク堂書店渋谷店は東急百貨店の建て直しの影響で、1月末に閉業してしまっていたことを思い出す。渋谷に来た時にはほぼ当たり前のように立ち寄っていた本屋だったので、何とも言えない喪失感。渋谷ではブックファーストも撤退してしまったし、東京駅前では八重洲ブックセンター本店ももうすぐ閉業だし。東京のあちこちから、本屋が次々と消えていく。

近頃は個人経営の独立系書店が増えたという話も聞くけれど、どこも経営は全然楽ではないそうで、苦労話もあちこちで耳にする。個人的には、最近のエネルギー高騰や物価高からして、あと何年かしたら、アマゾンなどのネット書店で紙の本を買う時の送料も有料化されると予測している。そうなった時、僕たちはどこで本を買えばいいのだろう。今でさえ、すぐ近所に本屋がある街は、日本でも実はそんなに多くはないのに。

結局、僕は渋谷から歩いて代官山に行き、代官山蔦屋書店でほしかった二冊の本のうちの一冊を見つけて買った。もう一冊は、帰りに新宿で途中下車して、紀伊国屋書店新宿本店で手に入れた。仕事用のショルダーバッグは、家から持ってきていた本と合わせて三冊の本で、ぱんぱんになった。