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本の価値を決めるもの

去年雷鳥社から刊行した『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』が、日本旅行作家協会が主催する紀行文学賞、第6回「斎藤茂太賞」を受賞した。

自分の本がこの賞の最終候補に残っているという情報を知ったのは、今年の5月。それから、コロナ禍などの事情で最終選考の実施が2カ月ほど遅れ、ようやく先週決定したのだそうだ。

雷鳥社の担当編集者さんから電話を受けて、最初に感じたのは、とにかく「ほっとした」という安堵の思いだった。これで、この本を作る際に力を貸してくれた大勢の方々に、少しだけ恩返しができた。……というより、土壇場で選にもれて関係者の方々をがっかりさせずに済んだ、という気持の方が強かったかもしれない。実際、去年一年間で、僕の本より売れた紀行本は山ほどあったし、メディアで数多く取り上げられた本も他に何冊もあったから。

世の中にある数多の文学賞は、読者が本を選ぶ時の参考にできる、ものさしの一つにはなると思う。ただ、そうした文学賞は、その本自体の絶対的な価値を定義したり保証したりするものではないとも思う。売上部数やメディア露出も、読者にとってのものさしにはなると思うが、それもまた、本自体の絶対的な価値を決定づけるものではない。

本は、それが内容的にある一定の水準を満たしているものなら、良し悪しや優劣を第三者が決めることにはあまり意味がない、と僕は思う。読む人それぞれが、好きか、そうでもないか、と判断すれば、それで十分だ。ある人にとってはありきたりの内容の本でも、別の誰かにとってはかけがえのない大切な本かもしれないのだから。

ただ、内容的にある一定の水準を満たせていない本、具体的には、誰かを不当に貶めたり傷つけたりする内容が含まれる本や、事実を誤認させる情報が載っている本、他の本のアイデアや内容を剽窃している本は、そもそも俎上に載せてはならないとも思う。残念ながら、書店にはそういう本も少なからず並んでいるけれど。

僕にとって、自分が書いた本に価値があるかどうかを実感させてくれているのは、読者の方々一人ひとりからお寄せいただいた、メールや手紙、SNSなどに書かれた、読後の感想だ。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』に対しても、本当にたくさんの感想をいただいた。冬のザンスカールへの想い、自然と人とのあるべき関係、人生の持つ意味について考えたことなど……。その感想の一つひとつが、僕にとっては、本当の意味でのトロフィーだと思っている。そうした感想に目を通すと、また全身全霊を込めて本を作ろう、と気持を奮い立たせることができる。

本の価値は、読者の方々、一人ひとりに、委ねるべきものなのだと思う。

見えない対岸に向かって

前々回、前回と書いてきた文章の、また続きのような、そうでもないような文章を書いてみる。

『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』という本に書いた、2019年初頭の冬のザンスカールでの旅は、出発前はもちろん、旅の途中まで、一冊の本にまとめるという考えは、持っていなかった。何年も前からチベット暦を分析して計画していた旅だったけれど、それを本にできるかどうかは、自分でもわからなかったし、自信もなかった。自分で撮影した写真と合わせて、どこかの雑誌に短い記事を発表できれば御の字、くらいに思っていたのだ。もちろん、取材に関わる費用は持ち出しだったから、仕事のためと言うにはほど遠い旅だった。

あの旅を、出発前からわかりやすい形で仕事として成立させ、取材の経費も節約する方法は、いくらでもあったと思う。「厳寒期ザンスカール縦断決死行! 幻の祭礼を世界初取材!」みたいな謳い文句で、テレビに企画を売り込んでドキュメンタリー番組にすることもできたかもしれない。事前に旅の計画を大々的に発表して、クラウドファンディングで資金を募ったり、アウトドアメーカーなどにスポンサードしてもらうこともできたかもしれない。でも、僕はそうしなかった。ごく一部の人たち以外、計画のことは極力伏せ、知られないようにしていた。

僕の目的は、あの旅によって、自分が名を上げることでも、金を稼げるだけ稼ぐことでもなかった。あの旅の動機は、僕の内側の奥底の部分から、もやもやと立ち昇ってきていたものだったから。ラダックという土地に十年以上関わり続けてきた中で、その正体もわからないままずっと抱え続けてきた思いのような何かを、冬のザンスカールでの旅を通じて、もう一度、一人で見定めたかった。あの旅を実行することで、自分がどこに行き着くのかは、まったくわからなかった。本当に、見えない対岸に向かって漕ぎ出したような旅だった。

冬のザンスカールでの旅の途中、僕は、「ミツェ(人生)」という言葉に出会った。旅が終わりに近づいた頃、ともに旅したパドマ・ドルジェがその言葉を口にした時、それまでの旅のすべてが、一つにつながった。自分の中にあったもやもやがすっかり消え失せ、一冊の本のイメージが、完全な形で現れた。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』は、そのイメージを、そのままの形で本にしたものだった。

もし、あの旅を、最初からわかりやすい形で仕事として成立させようとしたり、冒険プロジェクトとして事前に大々的に発表したりしていたら、『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』のような本を作ることはできなかったと思う。たぶん全然別の、いささか薄っぺらい結果発表になって、おそらくあっという間に忘れ去られただろう。

誰にでも、何にでも、当てはまる話だとは思わない。ただ、僕自身の場合は、こういう見えない対岸に向かって漕ぎ出すような旅の方が、本質的な部分の結果に直結していくことが多い。だから、たぶんこれからも、そういう先の見えない旅を、考え、探していくことになると思う。

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アーシュラ・K・ル=グウィン『ラウィーニア』読了。ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』から題材を採った物語で、イタリアのラティウムの王女ラウィーニアが、トロイアから逃れてきた英雄アエネーアスと出会い、のちのローマの最初の礎となっていく運命が描かれている。ウェルギリウス本人が時空を超えて重要な役どころで登場するという破天荒な仕掛けには驚かされたが、そうしたアレンジにまったく違和感を感じることなく、すんなりと物語に没入させてもらえるのは、さすがル=グウィンの匠の技といったところか。信じられないほど高い完成度の、美しい小説だった。

仕事でもなく、遊びでもなく

昨日書いた文章の、うっすらとした続きのような、そうでもないような文章になるのだけれど。

僕が旅に出る時、その種類は、だいたい三種類くらいに分かれるような気がする。一つは、完全に仕事のために行く旅。ガイドブック改訂のためのリサーチ取材とか、ツアーガイドの仕事とか、プレス向けツアーとか。依頼される形ばかりではなく、時には企画から自分で立てる取材もあるが、それも自分の中ではこの分類に入る。

二つめは、完全に遊びというか、趣味としての旅行に行く場合。2018年に行ったラオスとか、2020年初頭に行った台湾とかは、この分類にあたる。余暇といっても、旅の中で撮った写真を使って記事とかも書いてはいるのだが、それはあくまで結果的に仕事につながっただけのことで、自分の中では仕事目的の旅という意識はない。

三つめは……ややこしいのだが、完全に仕事というわけではなく、かといって完全に遊びというわけでもない、もやもやとした位置付けの旅。ラダックを旅してきた中でも、『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』の取材のような大きな計画の旅や、ここ何年か少しずつ通い続けているアラスカ方面への旅が、これにあたる。仕事でもなく、遊びでもなく、というのは、その旅の動機と目的が、とても個人的な、でも心の奥底の深い部分から出てきているものだからだ。

その旅の成果を、本などの形にしてまとめたいという気持ちはある。でも、単に自分が名を上げたり利益を得たりするための成果として、それを目指しているわけではない。そうかといって、本にすることなどまったく考えず、自分一人がその旅を堪能すればいい、とも思えない。もしかすると、その旅を通じて、人に伝える意味のある何かを見届け、持ち帰ってこれるのではないか……という思いがある。

仕事でもなく、遊びでもなく、自分自身でもうまく説明できない、でも行かずにはいられない旅。僕が一番大切にしているのは、そういうもやもやした思いで出かける旅だ。うまく言えないが……自分が生きていくための道筋のようなものを、その旅の中で見つけようとしているのかもしれない。どこに道があるのかもわからない、深い雪の中に埋もれている、たった一本のロープを、たぐり寄せようとしているように。

旅をするのも、写真を撮るのも、文章を書くのも、本を作るのも、僕にとっては確かに仕事だけれど、それだけではないのだと思う。自分という人間が生きていく上で必要な、迷い、苦しみ、あがきながら、踏み出していく一歩々々の、足跡のようなものなのかもしれない。

『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』

『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』
文・写真:山本高樹
価格:本体1300円+税
発行:産業編集センター
B6変形判344ページ(カラー16ページ)
ISBN978-4-8631-1302-2

2021年6月中旬に、新刊を上梓することになりました。『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々』から『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』までの間に横たわる、ラダック、ザンスカール、スピティで過ごした十年余りの旅の日々を、一冊に凝縮してまとめ上げました。これまで詳しい内容を発表していなかった各地でのトレッキングの記録をはじめ、十年間という歳月を積み重ねてきたからこそ書くことのできた、濃密な内容になったと思います。

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書き手として、撮り手として

昨年来のコロナ禍の影響で、かれこれもう一年以上、海外取材に行けないままでいる。

書き手としての仕事には、実はそれほど問題はない。日本の自宅でも、仕事机でパソコンのキーボードを叩けば、文章は書ける。まあそれも、自分の脳内に書くべき事柄のストックがある間は、ではあるけれど。

一方、撮り手としては、この一年余り、ほぼ何もできないままでいる。写真を撮りたい場所に赴くことすらままならないので、当然と言えば当然なのだが。個人的に今、写真を撮りに行きたい場所は、アラスカとその周辺の地域で、去年の秋に行く予定だったのだが、キャンセルせざるを得なかった。

いずれにしても、撮る方はもちろん、書く方も、取材で何かしら新しい素材をインプットしていかないと早晩枯渇するので、何とかしなければなあ、と思う。たぶん、来年以降の話になるだろうけど。いざという時に、すぐさま動けるような準備はしておきたいところだ。

そんなことを考えていて、一つ思うのは、これから撮り手として何を撮りに行くにせよ、「そこで何が撮れるか」という基準の前に、「そこで何を見聞きし、書き、伝えられるか」という基準で考えて選んだ方が、自分には合っているのでは、ということ。写真の被写体を基準にするのではなく、書き手として何を書けるか、何を伝えられるかを基準に考える方が、最終的に目指すゴールとしての「本」の姿が明確になるような気がしている。

とりあえず、そんなことをつらつら考えながら、このめんどくさい日々が過ぎ去るのを待つことにする。