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写真と現像と作為

終日、部屋で仕事。夏の間にインドで撮ってきた写真のセレクトと現像作業が、ようやく一段落。今年は新しい本を作るのに必要な撮影がたくさんあったので、いつもの年よりずいぶん時間がかかったが、とりあえずほっとした。

写真の現像作業、僕はニコンのデジタル一眼レフで撮影したRAWファイルを、アドビのLightroomというソフトで調整して、JPEGファイルに書き出している。Lightroomというのは便利なソフトで、これと同じアドビのPhotoshopとがあれば、それこそありとあらゆる加工処理を写真に施すことができる。

ただ、僕がデータの現像作業の時に意識しているのは、なるべく余計な加工をせず、最低限の調整ですませるようにすること。カメラとレンズのキャリブレーション、ホワイトバランス、露出。必ず確認するのはそれくらい。ハイライトやシャドウ、明瞭度、彩度、その他もろもろのパラメータは、必要に応じて、ほんのちょっとずついじる。撮影した時のまま何も加工していない「撮って出し」と思われるくらい自然な仕上がりが、ある意味一番理想的かもしれない、と思っている。だから、海外の写真愛好家の作品でよく見かける、HDRバリバリのCGチックな写真は、とても苦手だ(苦笑)。

撮影して現像する側の作為のようなものは、写真を見る側の人になるべく伝わらないようにしたい。見たまま撮ったまま、あるがままのイメージを、そのまま伝えたい。現像作業による調整作業は、撮影者が実際に目にしたイメージにできるだけ忠実な写真になるように微調整するためであって、撮影者が心の中で膨らませたドラマチックで絵画的なイメージに改変するためではない。少なくとも、僕の場合はそうだ。

それはある意味、写真を撮影する行為そのものにも通じることかもしれない。撮影者の作為が透けて見え過ぎる写真は、時としてあざといと受け取られてしまう。作為の枠の外にある、偶然のような何物かの流れを捉え、あるがままに受け止めること。そういう撮影ができるようになれたら、と思う。

カメラマンと体幹

今年の初めから、腕立て伏せ、腹筋、プランク、スクワットといった部屋の中でできるエクササイズを継続的にやってきて、具体的に効果があったと実感した点は、「カメラバッグを担ぐのが楽になった」ことだと思う。

カメラバッグに関しては、数年前からほぼバックパックタイプに切り替えている。機材が少なめの時はロープロのプロタクティック350AW。80−400mmの望遠レンズなどで機材が多めの時は、同じくロープロのプロランナーBP450AW2。どちらも機材がぎっちり入っているとかなり重く、長い時間背負っていると、特に背中から腰にかけてのあたりが疲れやすかった。

でも今年の夏の取材では、カメラバッグの重さが、去年までに比べるとあまり苦にならなかった。たとえば、ザンスカールのプクタルに歩いて向かった時、標高4000メートル近い場所の山道を機材がめいっぱい詰まったカメラバッグを背負って歩いていても、腰や背中はまったく平気だった。腹筋とプランクの習慣で、普段から体幹の筋肉をまんべんなく使えていたからだと思う。移動中や撮影中に身体がきつく感じないというのは、それだけ撮影に集中できるという意味で、ものすごく大きなメリットだと思う。腰痛の防止にもなるし。

年々おっさん化が進むにつれ、何もしないでいると、筋肉もしぜんと衰えていってしまう。これからも疲労に気を取られずに撮影し続けられるように、エクササイズの習慣は続けていこうと思っている。

あのカメラを手に入れる人へ

涼しいというか、肌寒いくらいの天気。午後から新宿へ。メインで使っているカメラをニコンのサービスセンターで点検してもらうのと、古いカメラとレンズをマップカメラで下取りしてもらうために。

今回下取りに出したニコンのD300Sと16−85mmの標準レンズは、以前はメインの機材として、本当にいろんな場所で活躍してもらってきた。チャンタンの荒野、濁流渦巻くカルナク、そしてザンスカールも。レンズを一度、軽く調整してもらったくらいで、トラブルはまったく起きなかった。

愛着というか、未練というか、そういう気持はもちろんある。でも、カメラもレンズも使ってナンボだし、それに僕は一応、プロだ。仕事の質を上げていくためには、年末頃までに新しいフルサイズ一眼レフを導入した方がいいという結論に達した。仕事で出番のなくなったカメラとレンズは、ちゃんと使えるうちに、新しい持ち主のもとで第二の人生を歩んでもらえた方がいい。

いつの日か、どこかの誰かが、あのカメラとレンズを手に入れたなら、いったい、何を撮るのだろう。自分の子供か、空を飛ぶ飛行機か、はたまた路地裏の猫か。できることなら、その人にこっそり伝えたい。そのカメラは、遠い遠いインドのヒマラヤの荒野を、ずっと旅してきたのだと。

「光」

河瀬直美監督の最新作「」。視力を失いつつあるフォトグラファー、中森と、視覚障害者のために映画の音声ガイドを作っているライター、美佐子の物語。これは観ておかなければ、と思っていた。

観ていてまず感じたのは、光と影、そして一つひとつの物音が、とても丁寧に捉えられ、繊細に表現されているということ。観る者の感覚は映画の中に引き込まれ、自分自身を取り巻く世界のディテールを感じ取る。

次に感じたのは、僕たちはみな、別に何も違わない、同じ人間なのだ、ということだった。この世界には、目や耳、手足にハンディキャップを抱えている人、あるいは認知症などで思考や記憶にハンディキャップのある人もいるけれど、それぞれが、それぞれの世界を持っている。一人ひとり、みな違っていて、だからこそ、何も違わないのだと。

そして、観終わった後に思ったのは……大切なものを失っても生きていく、ということについて。

もし自分が、写真を撮ることができなくなって、あるいは文章を書くことができなくなって、それでも生き続けなければならないとしたら。そう想像した時、本当に背筋が凍るような感覚で、怖ろしくなった。普通に死を迎えるより、その方がずっとつらい。なまじ、こういう仕事をしているからではあるけれど。

人間は、大切なものを、ずっと抱えながら、そして時々失いながら、生きている。僕たちが生きていく先に横たわっているものは、希望なのか、それとも、あきらめなのか。それを簡単な言葉に置き換えたくはない。いつか終わりが来た時に、その人だけが感じ取れるものなのかもしれない。

被写体との「距離の近さ」の正体

「被写体との距離が、近いですね」と、何かの機会に僕の写真を見てくださった方から、時々言われることがある。そう感じていただけるのは、もちろん嬉しい。ただ、最近ふと思ったのは、そもそも写真を見た時に感じる被写体との「距離の近さ」の正体とはいったい何なのか、ということだ。

カメラを持つ撮り手と被写体との間の「物理的な距離が近い」という、言葉通りの意味での「距離の近さ」がそう感じさせる場合は、もちろん多いだろう。望遠レンズで遠くから秘かに狙って撮るよりも、至近距離で撮る写真の方が「距離の近さ」は感じさせやすいのかもしれない。ただ、むやみに被写体に近づいて撮っても、良い写真にはならない。逆に、撮り手のあつかましさや思慮の浅さが透けて見えてしまうことも少なくないと思う。

被写体が人物の場合、互いの間の「気持の距離」が、その時、どんなバランスになっているのかを見極める必要がある。場合によっては、少し離れた場所から一定の距離を保って撮らせてもらった方が、その人との「気持の距離」を素直に伝えられたりもする。一定の距離があるからこそ伝えられる感情や思いも、世の中にはたくさんあるからだ。

物理的な「距離の近さ」ではなく、本質的な意味での「距離の近さ」を見る者に感じさせる何かが写真にあるとしたら、その正体は、被写体に寄り添う撮り手の気持そのものだと思う。一方的な思いを写真にねじ込むのではなく、フレームの外からそっと寄り添うように、被写体を近しく思う気持を届けられているかどうか。気持が寄り添っていることを伝えられている写真なら、物理的な距離は近くても遠くても、本質的には関係ない。さらに言えば、被写体が人物であろうと動物であろうと風景であろうと、撮り手の気持が被写体に寄り添っているかどうかは、必ず写真ににじみ出る。それはもう、確実に。

僕もできるだけ、常に被写体に寄り添うような気持で、写真を撮り続けられたら、と思う。