Category: Diary

再読の日々

六月頃からひっきりなしに稼働し続けていたエアコンも、ようやく出番がなくなってきた。ガーゼの肌掛けが掛け布団になり、部屋着がTシャツと短パンから長袖スウェットの上下になり、朝のコーヒーがアイスからホットになり、近所を出歩く時の靴がサンダルからスニーカーになった。マンションから外に出ると、金木犀の匂いがふわりと漂っていた。やっと、秋らしくなった。

金子書房のnoteで、「流離人の耽読」という読書エッセイの連載を始めた。その準備の関係もあって最近は、本を読んでは連載の原稿を書くという、今までにないルーティンで仕事をしている。これが、思いのほか新鮮で、面白い。基本的に月二回更新なので、読んで、書いて、また読んで、と結構せわしなくて大変ではあるのだが、今まで書いてきた紀行文とはかなり違うスタイルの文章に挑戦していることもあって、充実感がある。何事もやってみるものだな、と思う。

連載の性格上、エッセイで取り上げるのは、かつて何度か読んだことのある本の再読である場合がほとんどなのだが、ひさしぶりに再読すると、当時心を動かされた言葉に再会してまた感動したり、以前は気付かなかったことにふと気付いたり、いろいろな発見がある。本を読むという行為自体の面白さも、再発見できているような気がしている。

せっかくの取り組みなので、がんばって、できるだけ長く連載を続けていければ、と思っている。

iPhone Airに機種変

二年ぶりに、iPhoneを機種変した。iPhone 15 Plusから、iPhone Airへ。

iPhone Airは、とにかく薄くて、軽い。15 Plusがでかくて重いモデルだったから、手に感じる重さが全然違う。今回もNOMADのレザーケースを入手して装着しているのだが、見た目はシャープだし、手の中での馴染みもいい。気に入った。

薄さとのトレードオフで、バッテリーの持続時間やカメラの性能が低めと言われているが、僕はそもそも屋外でそんなにiPhoneをいじくらないし(主に紙の本を読んでいる)、カメラはそこそこ写ればいいし(ガチで撮る時はニコンを持ち出す)、性能的にはiPhone Airに何の不満もない。薄く軽くしてもらえて助かっている。今後もこのラインは継続してほしいなと思う。

今回はキャリアの買い替えプランに合わせて二年で機種変したのだが、最近はモデルチェンジごとの性能差もそこまでないし、バッテリーが劣化しなければ五、六年は余裕で使える。もう、シャカリキにスマホを売りさばくべき時代ではないような気もするのだが、どうだろうか。

四カ月ぶりの山行


仕事が一時的に落ち着いて、天気もそこまで暑くならなさそうだったので、陣馬山から高尾山までの縦走に出かけた。

日帰り山歩きに出かけるのは、五月に丹沢表尾根縦走をしてきて以来だから、およそ四カ月ぶり。なにせ、今年の夏は六月くらいから、めちゃめちゃ暑くなってしまったので……。山歩きや自転車はもちろん、近所をちょっと出歩くのも暑すぎて、歩行距離が全然稼げなかったから、脚力がどれくらい落ちているか、ちと心配なところではあった。

近所の図書館

この間、近所の図書館に行って、本を借りた。仕事で、二冊ほど児童書に目を通さなければならなくなり、カーリルで調べてみたら、家から一番近い図書館に在庫があるとわかったので。

家から歩いて15分ほどのところにあるその図書館を利用したのは、今回が初めて。図書館自体を利用したのも、ずいぶんひさしぶりだ(ラダック関連の資料本など図書館にはまずないし、そうした本自体、自分の書いた本以外にあまりないし)。平日の午前中でも、意外に利用者がちらほらいる。必要な本はすぐに見つかった。館内のパソコンで利用者登録をして、バーコードの付いた利用者カードを作ってもらう。本を貸し出してもらう時の手続きも、バーコードでピッピッ、とすぐに終わる。昔、学校にあった図書館の本には、表3の見返しの部分に手書きで記入する貸出カードを入れる紙ポケットがついていたが、ああいうのはもうないのだろうか。

近所の図書館、自分が興味を持てそうな本がもう少しあれば、引き続き利用してみたい気もするのだが、それには蔵書数が少々心もとない印象。これからしばらくの間、仕事でいろんな本に目を通すことになりそうなので、ドンピシャで在庫があれば、その時はまた……という感じかな。

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栖来ひかり『時をかける台湾Y字路 記憶のワンダーランドへようこそ』読了。台北を中心に著者自らが足で探し出した数々のY字路のルーツを、古地図や資料と重ね合わせながら紐解いていった、不思議な雰囲気の街歩きガイド。よく調べて書かれていると思うが、先に台湾で刊行された本をもとに日本オリジナル版として作ったからか、台北各地の地名などがある程度頭に入っていないと、少々とっつきにくいかなと思う(僕自身も苦戦した)。台湾が好きで何度も訪れている人には、ちょうどいいのかもしれないが。

右往左往する旅

インドから日本に戻ってきて、二週間ほどが過ぎた。

今回に限らないのだが、最近はラダックに少しの間行っていても、異国を旅してきたという感触が、正直あまり残らない。ラダック界隈は好きな土地だし、いられるものならいくらでも滞在していたいのだが、もう、あまりにもどこもかしこも知り尽くしてしまっているので、生半可な体験では、新鮮な風を自分の中に送り込むまでにはならないのかもしれない。チャダルを旅したり、雪豹を撮ったりするのに匹敵するような新たな経験を、あの土地でできるのであれば、話は別だけど。まだ残っているのかな、そういうテーマ……。

今はたぶん、自分がまだよく知らない土地を右往左往しながら旅してみて、新しい風を自分の中に取り入れてみる必要があるのかな、と思っている。そういう、右往左往する旅の仕方自体を、捉え直してみたい気もするし。

そういう旅の時間は、実は、そう遠くないうちにやってくる。そろそろ、少しずつでも、準備を始めねば。

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沢木耕太郎『天路の旅人』上下巻、読了。第二次世界大戦末期から戦後にかけて、内モンゴルからチベット、そしてインドまで、最初は密偵として、のちに流浪の旅人として、八年にもわたる旅を続けた西川一三の足跡を辿ったノンフィクション。西川さんには遠く及ばないけれど、僕も似たような土地でしんどい思いをした経験はそれなりにあるので(苦笑)、身につまされるなあと思いながらも、楽しく読んだ。

特に旅の終盤、あらゆるしがらみから自由になり、一人でインドを放浪する西川さんの姿は、本当に幸福そうで、正直、少し羨ましく思えた。

「その最も低いところに在る生活を受け入れることができれば、失うことを恐れたり、階段を踏み外したり、坂を転げ落ちたりするのを心配することもない。なんと恵まれているのだろう、と西川は思った。」

一つ、気になる点を挙げるとしたら、この本で多用されている「ラマ教」や「ラマ僧」といった表記だろうか。こうした呼称は、もともと西洋の研究者がつけたもので、チベット仏教に対する偏見を招くとして、現在では使用されなくなっている。これからも長きにわたって読み継がれていくであろうこの作品で、こうした論議を呼ぶ表記が使われているのは、残念だ。ほかにも、細かい部分で「ん?」と感じた点がいくつかあって、全体的に校閲の力不足という印象は拭えなかった。