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「流離人(さすらいびと)のノート」

金子書房のnoteで、旅にまつわるエッセイの新連載が始まりました。連載のタイトルは「流離人(さすらいびと)のノート」。毎月25日に1編ずつ公開されていきます。

【連載】「流離人(さすらいびと)のノート」 山本高樹(金子書房)

読者の方々からの反応によって、今後どのくらい続けていけるかが決まってくると思いますので、文章を読んで気に入っていただけたら、ページ脇にあるハートマークをクリックして「いいね」をつけていただけると、非常に助かります……。どうぞよろしく。

紀行文講座を終えて

午前中、八王子で紀行文講座の第二回を担当。どうにかつつがなく終えることができたように思う。これで、錦糸町、北千住、八王子の三カ所で開催してきた紀行文講座は、すべて終了。自分で提案した企画ではあったけれど、肩の荷が下りて、ほっとしている。

去年、大手町で集中開催したラダック講座と違って、各センターで分散して開催される形になった今回の講座では、予想外の出来事が多かった。たとえば、課題として短い紀行文をテキストとメールで提出するように受講者の方々にお願いしていたのだが、パソコンで文章を打ってメールで送信するという作業自体に馴染みのない年配の受講者も少なからずいらっしゃるということは、現場でスタッフの方々に聞いて初めて知った次第。その方々には手書きの原稿を封書で送っていただいて、それを自分の手元で全部テキストに打ち直すことになった。それ以外にも、正直、面食らうような出来事もいくつかあって、何事も、やってみないとわからないものだなあと感じた。むつかしい……。

来年以降も続けてほしいというご要望も複数の方々からいただいて、ありがたいことだなあと思う一方で、そもそも来年は自分があまり日本にいなさそう(苦笑)という事情もあり、単純に同じような形で紀行文講座を継続するのは、難しいかな、とも感じている。僕のような人間が教えられるライティングスキルを具体的に必要としている人に、もう少しだけ対象を絞った方がいいのかもしれない、とも思うし。あとは、オンライン受講の体制の見直しや、アーカイブ受講を可能にすることとか、そもそもどういう組織体制のもとでやるのか(自前でやるという選択肢も含めて)、今回の反省を踏まえて考えねば、と思っている。

ただ、その前に、僕自身が、文章にしても写真にしても、もっともっとスキルアップしなければならないとも思う。現状で満足していてはダメだなと。もっと、うまくなりたい。伝えたいことを、より伝えられるようにするために。

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トマス・エスペダル『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術』読了。かなり期待して手に入れた本だったのだが、なかなかに難解で……。特に前半から中盤にかけては、読み解くのに苦労したというか、理解しきれないまま読み進めていた感がある。完全なノンフィクションの紀行文ではなく、フィクションを織り交ぜつつ、自伝やエッセイや詩などを組み合わせた複雑な仕立てにしているのは、ブルース・チャトウィンの影響も少なからずあるのかもしれないが、少なくとも僕は、チャトウィンの作品ほどには没入できなかった。読み手にも、それなりの知識と読解力が必要な作品なのだと思う。

「デチェン・ラモの言葉」

金子書房のnoteに、「デチェン・ラモの言葉」というエッセイを新しく寄稿しました。同社のnoteで展開されている「心機一転・こころの整理」という特集のテーマで依頼を受けて、執筆したものです。旅先で一文なしになった時の話(苦笑)とかをまくらにしつつ、本当にどうしようもなくきつい時期に支えられた言葉について書いています。

よかったら、読んでみていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

ゴールポストが後ずさり

先週あたりから、新しい本の原稿の執筆を再開。日々黙々と書き続けている。

去年の晩秋から書きはじめたこの本の原稿、途中タイ取材とかで中断期間はあったのだが、これまでにどのくらい書いてきたのか計算してみると、80ページだった。予定している総ページ数の、だいたい三分の一くらい。たぶん。おそらく。

言葉尻があやふやなのは、最終的に全体で何ページくらいの本になるか、まだはっきりしていないからだ。少しずつ書き進めて様子を見ながら、台割もその都度調整しているので、一つの章だけでもページ数がにゅるっと増えてしまったりしている。もちろん予算の都合もあるので、野放図にページを増やしまくるわけにもいかないのだが、内容的に妥協はできないし。嗚呼。

総ページ数という名のゴールポストが、今日もじわじわと後ずさりしていく。

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赤染晶子『じゃむパンの日』読了。42歳の若さで逝去された芥川賞受賞作家の方が遺したエッセイ集。短いセンテンスでぽんぽんと切れ味よく綴られた文体と、ささやかなものごとに対する視点の意外さがくせになる面白さ。でも、ふと気づくと、どことなく哀しい気配もうっすら漂っていて。多くの人に読み継がれてほしいな、と思った。

正解はどこにもない

冬晴れの気持ちのいい日。今日は仕事をオフにして、一人で出かける。

祖師ヶ谷大蔵に移転したスリマンガラムで、ランチのノンベジミールス。本物のバナナの葉に供されるポンニライスとカレーの数々を、たらふくいただく。ぱんぱんに膨れた腹をさすりながら、日の当たる道をぶらぶら南下。30分ほどかけて砧公園まで歩き、公園のベンチで少し本を読んで、世田谷美術館へ。

美術館では、「祈り・藤原新也」展を観た。想像以上に大規模な回顧展で、藤原さんの代表作から、こんなテーマにも取り組んでいたのかという驚きの作品まで、見応えのある内容だった。この地上に存在する、生きとし生けるもののありようを、愚直なまでにずっと追い続けてきた人なのだなあ、と。

今時のフォトグラファーが撮る「映え」重視の写真に比べると、藤原さんの写真には、セオリーもテクニックも気にせず、ただその場で感じたまま撮って、そのまま差し出したような作品が多い。文章もそうで、セオリーを飛び越えた天衣無縫なところがある。そうした写真と文章を、ためつすがめつ眺めながら……写真って、文章って、そもそも何なんだろう、何をどうすればいいんだろう、正解なんてどこにもないんじゃないか?……と、自分自身のこれまでを省みつつ、あれこれ思い巡らせたりしていた。

よく見ること。相手だけでなく、自分自身の内側も。結局は、それなのかもしれないな。