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再び極北へ

来年の夏の終わり頃に計画しているアラスカへの旅の準備を、少しずつ始めた。まだ、おおまかな日程を考えて、現地に問い合わせを入れた程度だが。

今年は、年明けにザンスカールで結構厳しい取材に挑んで、その時の話を本にするために今も原稿を書いているところなので、正直、アラスカの方に振り分ける時間と余力が、まったくなかった。来年の春までに今取り組んでいる本を無事に完成させられれば、夏以降はある程度余裕ができるはずなので、来年こそは、と思い立った次第。アラスカ関係には、今くらいの時期から動いておかないと間に合わなくなる手配もあるので。

ひさしぶりに、あの極北の空気を吸いに戻れるかも、と思うと、心がすっと軽くなる。ラダックやザンスカールとは違う形で、アラスカという土地に親しみと憧れを感じている自分がいる。

アラスカでの撮影取材に一人で取り組むようになって、デナリ国立公園でのキャンプ、南東アラスカの無人島、厳寒期のロッジ滞在、北極圏の村への訪問など、いくつかのトライを積み重ねてきた。「アラスカについて、まとめた形で発表しないんですか?」とよく訊かれるのだけれど、今までの旅のエピソードをそのまま写真と文章という形でまとめるのは、自分的に何かしっくりこないというか、納得しきれない感触がある。今まで積み重ねてきたものはまったく無駄ではないとは思うのだが、アラスカについて、自分自身が「これだ」と納得できるものを形にするには、違うアプローチが必要になりそうだ、と感じている。逆に言えば、中核となる「何か」を形にできたら、今までの蓄積もすべて活かせるとも思っている。

うまく言えないが、来年の計画も含めて、今までのアラスカでの旅の経験をさらに積み増ししていくことで、そう遠くない将来に「これだ」と思えるトライをできるのではないか……と、ぼんやり考えている。経験、スキル、視点、思考……いろいろ含めて。

ともあれ、来年は、再び極北へ。楽しみだ。

頑張るだけでは

別のインド関係の本の編集作業を予定よりも早く始められることになったので、この数日間は自分の本の執筆を一時中断して、ゲラとにらめっこする日々を送っていた。

妙な言い方になってしまうが、正直、ちょっとほっとした。編集作業は、本の原稿を書くよりも、精神的には楽だ。無心で黙々と集中して頑張っていけば、何とかなる。でも、本を書く作業は、僕の場合、無心で黙々と集中して頑張るだけでは、どうにもならない部分がある。

暗闇の中で、これか? 違う、そうじゃない、じゃあそれか? それともあれか? と、延々と手探りしてるような感覚。これでいい、と判断できるのは、自分自身だけ。あってないような正解を探して、ひたすら喘いでいる。

明日からは、またその只中に戻る。頑張るだけではどうにもならないけど、でも、頑張るしかない。

「旅の時間」を書く

僕が今書いているのは、今年初めにザンスカールを旅した体験についての本だ。ガイドブックや雑誌向けの短い写真紀行とかではなく、一冊の本としての旅行記を書くのは、2009年に初版を出した「ラダックの風息」以来になる。ただ、同じ旅行記というジャンルでも、あの時と今とでは、書き方にかなりの違いがあると感じている。

ラダックの風息」の時は、足かけ約1年半という長い期間の中で経験した、きらっきらに輝く宝石のような出来事を拾い集め、一番良い形で輝くようにカットして磨き上げ、季節の移ろいに合わせて綺麗に並べて仕上げる、という感じの書き方だった。少なくとも、僕の中では。

今回の本はそれとは対照的で、準備期間を含めて約4週間という短い旅の経験を、日記形式のような形で書き進めている。毎日何かすごいことが起こるわけではもちろんなく、どちらかというと地味な展開の日の方が多い。きらっきらの宝石のような出来事もいくつか経験したが、それらの宝石は、どうということのない旅の時間の流れの中に、半ば埋もれている。

きらっきらの宝石の輝きをシンプルに活かすなら、「風息」の書き方でいい。あの本はそれでよかった。ただ、本の中に流れる旅の時間に読者を引き摺り込むのであれば、今回の本のテーマの選び方と書き方の方が合っている。興奮も、喜びも、安堵も、焦りも、疲労も、一行々々にみっしりと詰まっている。逆に言えば、本の中に流れる旅の時間をいかにうまく伝えるかということに、今回は非常に心を砕いている。ほんのちょっとした間の取り方や、書くべきことをどんなさじ加減で書くか、書かなくても大丈夫なことをどうやって決めて省いていくか。今までの書き仕事では経験したことのない挑戦をさせてもらっているように思う。

あえてたとえるなら、大きなモザイク画を作っているような感覚だ。大小さまざまにきらめく断片を拾い集め、一つひとつ丹念に並べて敷き詰めていって、最後に、無数の小さなきらめきの集合体である一つのモザイク画に仕上げる。その時に立ち現れるはずのイメージが、ここまで書き進めるうちに、ようやく、うっすらと見えてきたような気がする。

ルーティンを守る

タイ関連の作業がとりあえずいったん手離れしたので、再び、本の原稿を書く作業に戻っている。

朝起きて、トーストを食べ、出勤する相方を見送りつつ、眠気覚ましのコーヒーをいれる。それを飲みながらメールのチェックと返信をして、その日書く部分のプロットを見返して確認。昼少し前にいったん机を離れ、スーパーで食材の買い出し。昼飯を簡単にすませ、机の前に座り直して、執筆開始。4、5時間ほど集中して書く。その日のノルマが達成できたら執筆終了。体操で身体をほぐし、自重筋トレをして、晩飯の支度。相方の帰宅時間に合わせて1、2時間で仕込み終え、晩飯を食べ、風呂に入り、2日に一度ビールを飲み、寝る。

こういう判で押したような生活を、タイに行く前の9月も、今も、ずっと続けている。1日のうちに執筆以外でやらなければいけないことは、できるだけルーティン化しておきたい。そうすると、余計なことに気を取られることなく、書くべき文章に集中できる。

今回の本の場合、1日のうちに書き進められる文字数は、だいたい1500字から2000字の間。よほど調子が良い時でも3000字くらいまでが限界。それ以上は集中力がもたない。焦ってむやみに書き進めるより、前後とのつながりや細かいバランス調整などを丁寧に整えながら、後から破綻したりしないように確実にパーツを積み上げていく方が、少なくとも僕の性分には合っている。

正直、悩みもプレッシャーもあるけれど、それも含めて、やっぱり愉しい。書くことは、自分の本分なのだなあと思う。

「使いやすさ」の理由

最近あらためて気が付いたのだが、家の台所で使っている道具の中で、柳宗理さんがデザインした製品の割合が、かなり多い。やかん、片手鍋、包丁、レードル、ボウル、パンチングストレーナーなどなど。カトラリーを含めると、もっとある。

柳宗理さんデザインの台所道具は、見た目の不思議な美しさだけでなく、実際に使ってみた時に感じる「使いやすさ」が、他と比べても群を抜いているように思う(もちろん、プロの料理人の方から見れば、日々の現場での酷使に耐えるプロ仕様の調理器具の方が良いのだろうとは思うが)。調理の場面々々での扱いやすさ、頑丈さ、洗いやすさ、などなど……。たぶん、デザイナーのアイデアや持って生まれたセンスだけでは、そうした「使いやすさ」を実現することはできない。膨大な量の試行錯誤に裏打ちされた経験と知識がなければ、辿り着けない境地なのだろうと思う。

本や文章の「読みやすさ」にも、ある意味、似たようなところがあるかもしれない。パッと見で読みやすそうに思える文章は、ともすると、読み飛ばされてしまいやすい文章でもある。内容がぎゅっと詰まっていながらも、圧迫感を与えず、すっと読めて、伝えるべきことを伝えた上で、心に何かを残す。それが本当の意味での「読みやすさ」なのだと思うし、その境地に達するには、やはり、膨大な試行錯誤の末の経験が必要なのだろうとも思う。

そういう、本当の意味での良い文章を、書けたらいいなあ、と思うのだけれど……。難しいなあ(苦笑)