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Laos, from Dawn till Sunset

「意見」を読む前に「事実」を知る

今日の取材中、本筋とは関係のないところで、こんな話が出た。

最近、世間に出回っているニュース記事の類には、ニュースというより、それを書いた人の「意見」になってしまっているものが少なからずある。個人のブログであれば根拠のない誹謗中傷でもないかぎり好きに書いていいが、大小問わずメディアの名を背負う者の書く記事であるならば、まずは確固たる裏付けのある「事実」を提示すべきだ。その上で意見表明をしたいのであれば、社説など記名記事の場で論じればいい。

日頃からニュースを読む僕たちの側も、フェイクニュースやデマや扇動の類に惑わされないように、どの記事が真実を伝えているのかを見極める力が必要になる。そのためには、他人の「意見」を読んで安易に鵜呑みにする前に、何が「事実」なのか、客観的な視点で情報を集めて、自分自身で考える習慣を身につけなければならない。

自分の願望と同じ「意見」ばかりを集めても、「事実」の積み重ねである現実を見通すことはできない。

多様性と平行線

一昨日、取材の中で、こんな話題になった。

最近、ニュースなどでよく聞く「多様性」(diversity)という言葉。国籍や人種、性別、宗教、その他の内面的な価値観や意見の異なる人々が、この世界には混在する形で共存していることを指している。ただ最近は、「多様性を認めるべき」という言い方が、ともすると「異なる価値観や意見を持っている人ともわかりあうべき」というニュアンスで使われていることも多いという。

この「わかりあうべき」という考え方は、正直、かなりズレているように思う。というのも、世の中には、どれだけ互いに努力しても、どうしてもわかりあえずに平行線を辿るしかない関係にある人々が、必ず一定数以上はいるからだ。そういう人々とは、お互いにできるだけ干渉せずに平行線のままでいた方が、たいていうまく共存できるはずだ、と。

ある一つの考え方が、唯一無二の正しい答えであるとは限らない。正確な事実に基づいた論拠があれば、別の考え方もまた正解なのだ。その場合は、それぞれの論拠を確認し、認めないまでも、尊重しなければならない。

世の中には、本当にたくさんの、平行線のままでしか共存し得ない人々がいる。その時に忘れてはならないのは、地球上のすべての人間には、守られるべき尊厳と人権があるというルールだ。自分たちの価値観を強要しようとして、相手の尊厳を故意に傷つけたり、人権や身の安全をないがしろにしたりするのは、論外だ。巷に蔓延しているヘイトツイートやヘイトスピーチ、悪意のあるデマの類は、その域を完全に超えている。国会議員にすらそれに加担している輩がいるという事実が、この国の病の深刻さを物語っている。

平行線は、平行線のままで。無理にわかりあわなくてもいいから、お互いの尊厳と人権を、尊重して。

寄り添う写真

昼、リトスタへ。写真展「Thailand 6 P.M.」に合わせて販売してもらうため、「ラダックの風息[新装版]」と「ラダック ザンスカール スピティ[増補改訂版]」を箱詰めして、家から両手で抱えて搬入。ちょうどランチの時間が始まったので、いわしの南蛮漬け定食とコーヒーをいただいて、本を読みつつ、しばし在廊。

地元の人や、この界隈でお勤めの人らしいお客さんが、30人弱ほどご来店。そこはかとなく耳をそばだてていると、「あら、写真が変わったわね! どこかしら?」「タイだって」「そういえば前にベトナムでさあ……」「誰それさんとカンボジアに行った時はね……」といった会話が、あちこちから聞こえてきた。何だか嬉しかった。今回の写真展は、ごはんを食べながらゆったりした気分で写真を眺めて、それぞれの旅の思い出話とかを楽しんでもらえたらなあ……というイメージで考えた企画だったからだ。

見る者を圧倒するのではなく、何気なく、寄り添うような写真。そういう写真も、あっていいと思う。

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アントニオ・タブッキ著、須賀敦子訳「島とクジラと女をめぐる断片」読了。小さくて悲しくて美しい「断片集」。個人的には「インド夜想曲」よりもこっちの方が好きだ。最後のクジラのひとことが、くっと胸に刺さった。僕もアラスカで、クジラにああ思われていたのかもしれない。

どうということのなさ

今週から始まった写真展「Thailand 6 P.M.」。水曜のオープニングの時にも、来場者の方々からいろんな感想をいただいたのだが、中でも「これ、いいですね」と言ってくれる方が多かったのは、この写真だった。

これは、去年チェンマイで撮ったもの。特に有名な場所にある石像とかではなく、つぶれて閉店してしまったらしいスパかエステか何か、その系統のお洒落系の店だった場所の軒先に、ぽいっと打ち棄てられていたものだ。たまたまその場所を通りがかった時、暮れていく太陽の柔らかな光がスポットのように石像の横顔に当たっていたのを、カメラで何枚か撮った。今はもう、あの場所にこの石像はないかもしれない。

どうということのない写真といえば、その通りだと思う。でも僕は、その「どうということのなさ」に、なぜか惹かれる。ささやかな、どうということのなさに感じる、いとおしさ。いとおしいものは、僕たちの身の回りに、たくさんある。