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考える時間

「コロナ禍で、旅に出られなくなりましたけど、大丈夫ですか? ストレス、溜まりませんか?」

という質問を、去年から割とよくされる。確かにコロナ禍以前は、一年のうち三、四カ月は日本にいないような生活を送っていたから、そう思われても当然かもしれない。

ただ、当の本人は、意外というか何というか、特に悩んでもなければ、ストレスを溜め込んでもいない。それどころか、実のところ、ほんの少し、ほっとした心持ちでいる。それは単に、僕自身のタイミング的な問題だと思うのだが。

2019年の1月から2月にかけて、何年も前から計画を練って狙っていた厳寒期のザンスカールでの旅を実行して、その経験を基にした本『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』を書いて……自分がこの十年以上もの間、積み重ねてきたものが、ある種の奇跡のような形であの一冊に結晶したことで、僕は文字通り、すべてをやり尽くしたような心境になっていた。その後も種々の仕事で海外に行ってはいたし、2020年の夏もラダックやアラスカに行く計画を立ててはいたが、本当の意味で、自分は次に何を目指すのか、そのためにはどこへ旅して、何をすべきなのかが、自分自身の中でうまくまとまらず、もやもやしたままだった。

だから、去年の夏の海外への旅がコロナ禍で強制キャンセルされて、残念ではあったけれど、心のどこかでは、自分で自分を引っ叩いていた手綱をゆるめることができて、ほんの少し、ほっとしていたのだと思う。

自分に必要なのは、考える時間だった。そういう意味では、去年からずっと取り組んでいた『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』の執筆は、自分自身のこれまでをすっかりふりかえって整理できたという意味でも、すごく有意義な作業だったと思う。

何のために、誰のために、何をして、何を見出し、それをどう伝えるのか。競い合うのではなく、見せつけるのでもなく、ただ、大切な誰か、大切な何かのために、何ができるのか。

じっくり、考えてみようと思う。幸か不幸か、時間はまだまだ、たっぷりある。

ノンアルに思う

四月下旬から東京都で発令されている、緊急事態宣言。今回の宣言下では、飲食店での酒の提供が禁じられた。

吉祥寺にあるなじみのバーは、休業せざるを得なくなった。三鷹や西荻窪の行きつけのお店も、ノンアルのドリンクのみにしたり、いつもと業態を変えたりして、それぞれ頑張っている。そうしたお店に行くと、いつもと同じ愛想のよさで、いつもと同じように心のこもった、おいしい料理を出してくれる。でもさすがに、酒を出せなくなったというのは、相当きついようだ。去年からずっと、時短営業だ何だとあれこれ締め付けられる中で、いろいろ工夫して頑張ってきただろうに。

最近の酒造メーカーの技術力はすごいので、ノンアルコールビールも、味はそんなに悪くなく、それなりに飲める。じゃあ当面は外食もノンアルでしのぐか、と思えるかというと……正直、まったく納得できない。

コロナ禍が始まって、かれこれ一年以上経つ今になって、飲食店に酒の提供を禁じるのは……理論的・戦略的・医学的な根拠に基づく判断というより、行き当たりばったりにあれこれ講じてきた対策では感染拡大を抑えきれなくなったから、とりあえず酒を止めてみるか、という窮余の策でしかないように思う。理論的・戦略的・医学的な根拠に基づいて、広範囲な検査と隔離と補償を徹底してきた台湾やニュージーランドのような国々の今の平穏ぶりとは、あまりにもかけ離れた結果だ。

今の日本のこの惨憺たる結果を招いたのは、間違いなく、政府与党の政治家たちが、無為・無策・無能だからだ。彼らがまっとうに考えて仕事をしていれば、感染拡大はもっと抑えられたし、医療崩壊も起こらなかったし、多くの人が困窮に追い込まれるのも防ぐことができた。酒だって普通に店で飲めた。ライブや演劇にだって普通に行けた。オリンピックなんて、とうの昔に返上していたはずだ。

まっとうな思考のできない政治家が、自らの過ちを省みることも認めることもせず、詭弁を弄して地位と利権にしがみついているうちに、日本は本当に、ぐちゃぐちゃな状態になってしまった。

次の総選挙まで生き残れたら、自分の一票で、自分の意志を示そうと思う。

『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』

『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』
文・写真:山本高樹
価格:本体1300円+税
発行:産業編集センター
B6変形判344ページ(カラー16ページ)
ISBN978-4-8631-1302-2

2021年6月中旬に、新刊を上梓することになりました。『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々』から『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』までの間に横たわる、ラダック、ザンスカール、スピティで過ごした十年余りの旅の日々を、一冊に凝縮してまとめ上げました。これまで詳しい内容を発表していなかった各地でのトレッキングの記録をはじめ、十年間という歳月を積み重ねてきたからこそ書くことのできた、濃密な内容になったと思います。

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書き手として、撮り手として

昨年来のコロナ禍の影響で、かれこれもう一年以上、海外取材に行けないままでいる。

書き手としての仕事には、実はそれほど問題はない。日本の自宅でも、仕事机でパソコンのキーボードを叩けば、文章は書ける。まあそれも、自分の脳内に書くべき事柄のストックがある間は、ではあるけれど。

一方、撮り手としては、この一年余り、ほぼ何もできないままでいる。写真を撮りたい場所に赴くことすらままならないので、当然と言えば当然なのだが。個人的に今、写真を撮りに行きたい場所は、アラスカとその周辺の地域で、去年の秋に行く予定だったのだが、キャンセルせざるを得なかった。

いずれにしても、撮る方はもちろん、書く方も、取材で何かしら新しい素材をインプットしていかないと早晩枯渇するので、何とかしなければなあ、と思う。たぶん、来年以降の話になるだろうけど。いざという時に、すぐさま動けるような準備はしておきたいところだ。

そんなことを考えていて、一つ思うのは、これから撮り手として何を撮りに行くにせよ、「そこで何が撮れるか」という基準の前に、「そこで何を見聞きし、書き、伝えられるか」という基準で考えて選んだ方が、自分には合っているのでは、ということ。写真の被写体を基準にするのではなく、書き手として何を書けるか、何を伝えられるかを基準に考える方が、最終的に目指すゴールとしての「本」の姿が明確になるような気がしている。

とりあえず、そんなことをつらつら考えながら、このめんどくさい日々が過ぎ去るのを待つことにする。

「オールド・ドッグ」

先日から、東京の岩波ホールを皮切りに始まったチベット映画特集上映「映画で見る現代チベット」。その初日、ペマ・ツェテン監督の「オールド・ドッグ」を観に行った。2011年に東京フィルメックスで話題をさらい、グランプリを獲得した作品だ。

チベットの遊牧民や牧畜民の多くは、牧羊犬を飼っている。だいたいがチベタンマスチフという種類の大型犬で、もこもことした毛並みとどっしりした体格の、迫力のある犬だ。実際、怒らせるととても怖いそうで、人間でも喉笛に噛みつかれたらひとたまりもない。僕も以前、ラダック東部をトレッキングで旅していて、途中で遊牧民のテントに近づいた時、一頭のチベタンマスチフが殺気を帯びたものすごい吠え声で威嚇してきて、めちゃめちゃ怖かったのを憶えている。

そのチベタンマスチフは、2000年代に入ってから急に中国の都市部の富裕層の間で大人気になり、目玉が飛び出るほどの高値で取引されるようになった。辺境の地でチベット人たちが飼っていた犬たちは次々と買い取られ、あるいは盗まれていった。この映画は、その頃のあるチベット人の老人と、彼の飼っていた犬、そして彼の息子と妻の物語だ。

淡々と展開されていくこの物語には、誰もが思いもよらないであろう結末が用意されている。その衝撃は、チベット人である老人が持つ信仰と死生観を重ね合わせて考えると、さらにずしりと重く、どうにもやりきれないものを感じる。でも同時に、その選択は、彼がチベット人であったからこそ選び取った、誇り高き道であったのかもしれない、とも思う。彼の世代を最後に、途絶えてしまうかもしれない道。生い茂る草むらをかきわけて歩いていく老人の背中には、決意と哀しみが満ちていた。

中国の富裕層の間で巻き起こったチベタンマスチフの大ブームは、その後、あっという間にしぼんで消え失せた。あんな大型犬が、都会暮らしになじめるはずがないのだ。