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目指すべき高み

取材のため、朝から巣鴨へ。午前中に一件、午後に二件。それぞれ、まずまず首尾よくやり遂げたが、集中力のオン、オフをくりかえすのは、やっぱり疲れる。

すべての取材を終えた後、品川へ。キヤノンギャラリーで開催中の石川梵さんの写真展「人の惑星(ほし)」のオープニングパーティーに出席させていただく。名前を聞くだけでくらくらするほど錚々たるフォトグラファーの方々の迫力に圧倒されながら、会場の片隅でビールをすする(苦笑)。でも、石川さんや、一年ぶりにお会いした庄司康治さん、「梅里雪山 十七人の友を探して」の著者の小林尚礼さん、「グレートジャーニー」の関野吉晴さんなど、何人かの方にご挨拶ができたので、よかった。

石川さんの「人の惑星(ほし)」は、世界各地の壮大な自然の空撮と、さまざまな民族の生活や文化に密着した写真の数々が同居した、とてつもなく濃密な写真展だった。石川さんが写真を撮り続けてきた、30年という時間が凝縮されている。その密度に圧倒されながらも、「‥‥だったら、自分はどうする?」と、頭の片隅で考えている自分がいた。刺激を受けたというにはおこがましいけれど、改めて、自分の中にある目標設定をセットさせてもらえた気がする。

今まで目指してきたものに、間違いはない。ただ、目指すべき高みは、もっと上にある。

栄光と凋落

午後、東京国立近代美術館で開催中の、ジャクソン・ポロック展を観に行く。噂に違わぬ、すごい迫力の作品群。全体の構成や、随所に添えられた解説もわかりやすくて、とてもいい展覧会だった。

ポロックといえば、流れる塗料を画面に流し込むように描く「ポーリング」という技法を使ったダイナミックな作風で有名だが、彼がその技法を使っていたのが1947年から50年頃までのごくわずかな間だったことは、今回の展覧会で初めて知った。ピカソをはじめとする同時代の画家たちの巨大な壁を乗り越えようと悪戦苦闘を繰り返し、ついに辿り着いた、彼ならではの作風。そのまま同じ技法を使い続けていれば、もっと長い間、世間からの喝采を浴び続けられていたのではないかと思う。

でも彼は、その作風をあっさり捨て、さらに新しい技法への挑戦を始める。その挑戦は世間では受け入れられず、失意と苦悩の中で酒に溺れたポロックは、飲酒運転中に起こした交通事故によって、44歳の若さでこの世を去った。

全盛期を築いた作風を捨てたポロックの選択は、愚かなことだったのか? 彼はただ、一人の画家として、表現者として、自分自身に正直なだけだったのではないだろうか? 世間の評価など関係なく、自分が描きたいものを描く。彼の生涯は悲しい結末を迎えてしまったけれど、栄光からの凋落を怖れないその勇気は、素晴らしいな、と僕は思う。

無関心との戦い

昼、渋谷で開催されるチベット・ピースマーチへ。家を出る時はまだ雨が降っていたが、ピースマーチが始まる頃には止むだろうと思っていた。こういうチベット絡みのイベントがある時は、不思議なくらい天気が持ちこたえるのだ。案の定、一行が宮下公園を出発する頃には、雨はぴたっと止んた。

宮下公園から、渋谷駅前、宮益坂、国連大学、表参道、そして再び宮下公園まで。一時間半ほどのピースマーチ。参加人数は、多めに見積もっても、200人くらいだろうか。2008年の時は、六本木に2000人も集まったのだが‥‥。残りの1800人は、たぶん、チベットのことはもう忘れてしまったのだろう。沿道からも「何やってんの? この人たち」という冷ややかな目線を浴びることの方が多かった気がする。

200人が一時間半ほど渋谷の街を練り歩いたところで、何も変えられないのかもしれない。でも、誰も、何もしなければ、本当に何も変わらない。

昨年からチベットで続いている焼身抗議という行為が、賢明なやり方だとは僕も思わない。でも、日々の生活から言論や信仰まで徹底的に弾圧され続けているチベットの人々の思いを考えると、無責任に「よせばいいのに」などと軽く流すことなんてできない。彼らの戦いは、理不尽な弾圧を続ける中国当局との戦いであると同時に、世界中の人々の無関心との戦いでもあるのだ。

あなたが、チベットの人々のことをほんの欠片でも気にかけているのなら、もっと彼らの現状について知ってほしい。そして、チベットについて周囲の人々と話をしてほしい。無関心という敵に勝てなければ、チベットの人々は本当に、文字通り、見殺しにされてしまうのだから。

ラダックから学ぶ?

午後、茗荷谷にあるジュレーラダックの事務所へ。3月24日(土)に開催されるトークイベントにゲスト出演することになったので、その打ち合わせ。

イベントのテーマは「ポスト3.11 持続可能な社会とは?ラダックから学ぶ」というもの。僕はラダックをある程度見続けてきた日本人としての立場で、写真を交えながらラダックの話をすることになった。

今回のように、日本でのラダック絡みのイベントや書籍では、「ラダックから学ぶ」といった感じの言葉がよく使われる。それは大いに結構なのだが、時々ほかの場所では、そもそもラダックとはどういう場所で、どういう人々が暮らしているのかをろくに把握しようとしないまま、ごく一部の事象だけを拾い上げて性急にラダックを論じている人を見かける。そのたびに、僕は違和感を覚えずにはいられない。「学ぶ」前にまず、ラダックそのものを「知る、知ろうとする」ことが大事だろう、と。

ラダックの良い部分と悪い部分をフラットな目線で捉えて、ラダックの人々の心の部分——苛酷な環境で生き抜く少数民族ゆえの絆の強さ、チベット仏教に根ざした精神性など——も踏まえて、いろんな角度から考えてみるべきだと僕は思う。異国を理解するというのは、そういうことではないだろうか。そのプロセスを端折って、都合よさげな部分だけつまみ食いするように「学んで」も、それは本質からズレているし、そのまま日本で活かせるとも思えない。

イベントで僕が伝えたいと思っていることの一部は、そんなところかな。

心を踏みにじる

今日は、チベット暦の一月一日、ロサル。チベット人にとって、ロサルは一年で一番盛大なお祝いの日。近くのゴンパ(僧院)にお参りした後、親戚やご近所さんの家々を訪ねて、飲めや歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎが繰り広げられる日‥‥のはずなのだが。

今年のロサルを、心からの笑顔で迎えたチベット人は誰もいない。一年以上前から続くチベット本土での僧侶や一般人の焼身抗議者への弔いと、彼らに対してさらに弾圧を強める中国政府への抗議の意を込めて、チベットの人々はロサルのお祝いを慎んでいる。

滑稽なのを通り越して呆れてしまうのは、そんなチベット人に対して、中国政府が「ロサルを祝え! だが、寺院への参拝はするな!」と強要していること。同胞のために命を散らせた者たちを悼む心。敬虔な信仰を守り続ける心。人として当たり前の権利を持って生きたいと願う心。そういったチベットの人々の心を、中国政府は泥まみれの靴で踏みにじり、唾を吐いている。

そうした現実を、所詮は他人事だから、何かと都合が悪いから、と見て見ぬふりをしている人たちもまた、同じ穴のムジナだ。