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「旅の時間」を書く

僕が今書いているのは、今年初めにザンスカールを旅した体験についての本だ。ガイドブックや雑誌向けの短い写真紀行とかではなく、一冊の本としての旅行記を書くのは、2009年に初版を出した「ラダックの風息」以来になる。ただ、同じ旅行記というジャンルでも、あの時と今とでは、書き方にかなりの違いがあると感じている。

ラダックの風息」の時は、足かけ約1年半という長い期間の中で経験した、きらっきらに輝く宝石のような出来事を拾い集め、一番良い形で輝くようにカットして磨き上げ、季節の移ろいに合わせて綺麗に並べて仕上げる、という感じの書き方だった。少なくとも、僕の中では。

今回の本はそれとは対照的で、準備期間を含めて約4週間という短い旅の経験を、日記形式のような形で書き進めている。毎日何かすごいことが起こるわけではもちろんなく、どちらかというと地味な展開の日の方が多い。きらっきらの宝石のような出来事もいくつか経験したが、それらの宝石は、どうということのない旅の時間の流れの中に、半ば埋もれている。

きらっきらの宝石の輝きをシンプルに活かすなら、「風息」の書き方でいい。あの本はそれでよかった。ただ、本の中に流れる旅の時間に読者を引き摺り込むのであれば、今回の本のテーマの選び方と書き方の方が合っている。興奮も、喜びも、安堵も、焦りも、疲労も、一行々々にみっしりと詰まっている。逆に言えば、本の中に流れる旅の時間をいかにうまく伝えるかということに、今回は非常に心を砕いている。ほんのちょっとした間の取り方や、書くべきことをどんなさじ加減で書くか、書かなくても大丈夫なことをどうやって決めて省いていくか。今までの書き仕事では経験したことのない挑戦をさせてもらっているように思う。

あえてたとえるなら、大きなモザイク画を作っているような感覚だ。大小さまざまにきらめく断片を拾い集め、一つひとつ丹念に並べて敷き詰めていって、最後に、無数の小さなきらめきの集合体である一つのモザイク画に仕上げる。その時に立ち現れるはずのイメージが、ここまで書き進めるうちに、ようやく、うっすらと見えてきたような気がする。

ルーティンを守る

タイ関連の作業がとりあえずいったん手離れしたので、再び、本の原稿を書く作業に戻っている。

朝起きて、トーストを食べ、出勤する相方を見送りつつ、眠気覚ましのコーヒーをいれる。それを飲みながらメールのチェックと返信をして、その日書く部分のプロットを見返して確認。昼少し前にいったん机を離れ、スーパーで食材の買い出し。昼飯を簡単にすませ、机の前に座り直して、執筆開始。4、5時間ほど集中して書く。その日のノルマが達成できたら執筆終了。体操で身体をほぐし、自重筋トレをして、晩飯の支度。相方の帰宅時間に合わせて1、2時間で仕込み終え、晩飯を食べ、風呂に入り、2日に一度ビールを飲み、寝る。

こういう判で押したような生活を、タイに行く前の9月も、今も、ずっと続けている。1日のうちに執筆以外でやらなければいけないことは、できるだけルーティン化しておきたい。そうすると、余計なことに気を取られることなく、書くべき文章に集中できる。

今回の本の場合、1日のうちに書き進められる文字数は、だいたい1500字から2000字の間。よほど調子が良い時でも3000字くらいまでが限界。それ以上は集中力がもたない。焦ってむやみに書き進めるより、前後とのつながりや細かいバランス調整などを丁寧に整えながら、後から破綻したりしないように確実にパーツを積み上げていく方が、少なくとも僕の性分には合っている。

正直、悩みもプレッシャーもあるけれど、それも含めて、やっぱり愉しい。書くことは、自分の本分なのだなあと思う。

スマートな旅

約三週間半のタイ取材を終え、今朝、東京に戻ってきた。

今年のタイの旅は、トラブルらしいトラブルもほとんどなく、スムーズに終えることができた。毎年ほぼ同じ地域を定点観測的に回っているので、土地勘もあるし、注意すべきポイントも頭に入っているから、当然と言えば当然なのかもしれない。あと、言わずもがなだが、テクノロジーの進化に助けられてる面も大きいと思う。

インターネットとスマートフォンによって、旅は格段に便利でスマートになった。その日泊まる宿をネットで事前予約しておくのは当たり前で、飛び込みで訪ねたら逆に訝しがられる。道に迷ったら地図アプリ(オフラインでもGPSで現在位置がわかるアプリもある)を見れば、目的地まで最短距離で移動できる。僕はまだ使ってないけど、タクシーも、今やGrabやUberなどのアプリでピンポイントで呼ぶ時代だ。

その一方で、昔からある安宿街は小綺麗なドミトリー主体のホステルに取って代わられ、トゥクトゥクやソンテオはGrabに客をすっかり奪われて、暇を持て余している。そういう時代の流れにはもはや逆らえないのかもしれないし、ノスタルジーに浸るつもりもないのだが……何だろう。何もかもが効率よくスマートに手配できてしまえることに、ちょっと拍子抜けというか、物足りないものを感じてしまう。

自分が二十代の頃からくりかえしてきた旅をふりかえってみても、記憶に強烈に焼き付いているのは、トラブルにさんざん振り回されて苦労した時の旅だ。自分自身で決断し、周囲の人々にも助けてもらいながら、どうにかして苦境を切り抜ける。そういう経験でしか味わえない旅の本質というのは、確かにあると思う。

自ら好き好んでトラブルに飛び込んでいくのは愚かだけど、あらゆるトラブルをスマートにかわしながら効率よく旅をすることに慣れすぎるのも、どうなのかな、と思った。

七年目のおつとめ

明日から約三週間半のタイ取材が始まる。「地球の歩き方タイ」の改訂のための取材なのだが、何だかんだでこの時期にタイに赴くのも、今年で七年目。我ながらよく続いてるなあ、と思う。

取材の回数を重ねるうちに、だいぶ要領もわかってきて、効率化されてきてはいると思うが、それでも突発的な事情で現地であたふたさせられることは、今年もしょっちゅうあるだろう。まあ、そういう時に柔軟に対応することも含めての取材なので、それなりに覚悟はしている。

今年のタイは、どんな感じだろうか。取材しながらも心穏やかに過ごせたら、それが一番いいけれど。

というわけで、七年目のおつとめのため、しばらく留守にします。帰国は10月24日の予定です。では。

語り部として

毎日、本の原稿を書き続けていると、いろんな発見がある。

フリーランスでライターの仕事を始めて、かれこれ20年にもなるけれど、未だにこれだけ気付かされることがあるのかと、自分でも驚いている。普段の書き仕事では、長くても数千字程度の原稿を書くことがほとんどだが、今取り組んでいるのは、10万字を超える長さの原稿。それも、事実に則したノンフィクションではあるけれど、ある種の「物語」でもある原稿。その違いは大きい。

それは簡単には説明しづらいのだが、「流れ」とか、「間」とか、「緩急」といった、文章術のセオリーには収まりきらないようなことだ。わかりやすく読みやすい文章を書く「物書き」としての技術というより、物語をよどみなく語る「語り部」としての、阿吽の呼吸のようなものだろうか。1行どころか、ほんの1文字で、がらりと変わる。改行や句読点の打ちどころでも変わる。一見無駄に見える何気ないひとことが作り出す流れもあれば、あえてばっさり省くことで生まれるリズムもある。

20年も物書きをやってきたのに、自分は何にもわかっていなかったのだなあ、と、今さらながら、思い知らされている。だから今、書いていて、すごく愉しい。苦しいけれど、最高に、面白い。そうして少しでも、「語り部」に近づいていけたら、と思う。