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出発前の嵐

台風9号の首都圏上陸で、朝から天気は大荒れ。幸い、特に出かけなければならない用事もなかったので、旅の荷造りの仕上げをして、あとは部屋で雨と風の音を聞きながら、おとなしく過ごす。

元々は今日から出発する日程を考えていたのだが、お盆明けの平日に1日東京にいることで、仕事関係の連絡がつきやすいようにした方がいいと思い直して、明日の出発に変えたのだった。今となっては、本当に運が良かったと思う。もし出発予定が今日だったら、飛行機の遅延や欠航で、現地の細かい事前手配が危うくパーになるところだった。

まあ、明日からの2週間、何もかも予定通りにうまく運ぶとはまったく思ってないけれど、まずは五体満足無事に戻ってくることを目標に、新鮮な気持でアラスカを楽しんでこようと思う。

帰国は9月5日の予定。ではまた。

旅というより

夜、来週火曜からのアラスカへの旅の荷造りに、ようやく着手。

今回の目的地は、南東アラスカ。二年前のようにキャンプをするわけではないのでテント関連は不要なのだが、無人島にある丸太小屋に数日間泊まるので、厳寒期用寝袋とマットレス、炊事道具、フリーズドライの食料、海から上陸する際の長靴など、それなりにいろいろ持って行かなければならない。グレゴリーの95リットルのダッフルバッグが、みるみるうちに満杯になっていく。

おまけに撮影機材も、カメラボディ2台にレンズ4本(うち1本は80−400mmという横綱級)という一番大がかりなセットだし、パソコンとハードディスクもあるしで、ダッフルバッグと同時に全部背負ったら鎖骨が砕けそうなレベルである。何というか、旅の準備というより、引っ越しか夜逃げでもするみたいな気分になってきた。

毎度のことながら、アラスカ、いろいろしんどい。

「DDLJ 勇者は花嫁を奪う」


成田とデリーの間を往復するエア・インディアの機内で、そういえばまだちゃんと観てなかった、と思ってがっつり観たのが、「Dilwale Dulhania Le Jayenge」。日本では以前ひどい邦題をつけられていたが、最近は「DDLJ 勇者は花嫁を奪う」と呼ばれている作品だ。この映画が公開されたのは1995年。その当時大ヒットしただけでなく、ムンバイの映画館マラーター・マンディルでは、その後20年近く、1000週以上にわたって上映され続けるという、ギネスブックにも載る超ロングランヒットとなった。

厳格な父と家族とともにロンドンで暮らすシムランは、インドに父の決めた一度も会ったことのない婚約者がいる。独身最後の思い出作りに友達とヨーロッパ旅行に出かけた彼女は、お調子者のラージと出会い、ひょんなことから二人で旅をするようになる。初めは喧嘩ばかりしていた二人だったが、旅が終わる頃、それぞれが自分の気持に気付く。しかし、シムランは結婚式のためインドに連れて行かれてしまう。それを追いかけるラージの選んだ行動は……。

何というか、観終わった後、本当に掛け値なしに幸せな気分になれる映画だった。シャールクは普段おちゃらけてばかりだけどここぞという時はキメるという彼の一番得意な役柄だし、カジョールの輝くばかりの美しさと喜怒哀楽の演技も唯一無二の存在感を放っていた。ヨーロッパの列車旅が終わった時、シャールクと別れた直後のカジョールの表情にはどきりとさせられたなあ。そして180分見続けた後の、ラストのあのあまりにも有名すぎるシーン。

映像作品として見た場合、ツッコもうと思えばツッコめるポイントは山ほどある。時にベタすぎるほどベタな展開や、冗長すぎるんじゃないかと思えるくだりも。でも、そういう部分も全部ひっくるめて、この作品の魅力になっているとも言える。そして「DDLJ」のDNAは、その後作られた数え切れないほどのインド映画にも脈々と受け継がれているのだ。海外のライフスタイルへの憧れ、インドの伝統と格式への誇り、家族との絆、男の戦い、叶わないと思っていた恋の成就……。

これからもこの作品は、インドの人々の間で、愛すべき映画の一つとして、ずっと語り継がれていくのだろう。本当に幸せな作品だと思う。

「Tamasha」

tamasha今年の夏のラダック滞在、成田からデリーまで往復したエア・インディアの機内では、例によってインド映画三昧だった。機内でラインナップされていた中で一番観たかったのは、「Tamasha」。監督はイムティアーズ・アリー、主演は「若さは向こう見ず」に続いての共演となるランビールとディーピカ。東京で密かにロケが行われた作品という点でも気になっていた。

コルシカ島を旅していてパスポートとお金をなくして困っていたターラーは、芝居がかった嘘ばかり話す、ドンと名乗る男と出会う。二人は「コルシカにいる間は、お互いのことは嘘しか言わない。コルシカで起こった出来事はコルシカに置いていこう」と誓い合い、ターラーのパスポートとお金が届くまでの短い時間を二人で過ごす。別れの日が来た時、ターラーは本当の名前も知らない彼に惹かれていることに気づく。

数年後、二人はデリーで再会する。ドンことヴェードは、コルシカを旅していた時の彼とは別人のように実直なエンジニアとなっていた。やがて二人はつきあい始めるが、コルシカでの彼の記憶が忘れられないターラーは……。そして、本当の自分自身とは何なのか、子供の頃から引きずる苦悩と向き合うヴェードは……。

シンプルに若さはじけるボーイ・ミーツ・ガールのラブストーリーなのかと思いきや、それだけではなく、自分自身の弱さと向き合いながら道を探すヴェードの成長物語でもあり、冒頭から織り込まれている謎めいた劇中劇もきっちり伏線となって最後に収斂されているあたり、予想よりも凝った作りで、観ていて楽しかった。ただ、前半のコルシカ島での二人の物語がとても鮮やかで魅力的だった分、二人のすれ違いとヴェードの葛藤を描く後半はややパワーダウンした印象になったのは否めない。ターラーには後半ももっと物語に絡んでほしかった。

ラスト直前には東京で撮影された場面。重要なシーンに東京を選んでもらえたのは、ちょっとうれしい。そんな縁もあるのだから、この映画、日本で、日本語字幕付きで公開されるといいなあ……と希望的観測を書いてみたり。面白い作品だったので、ぜひに。

「カメラ目線」についての考察

たとえば、旅先で現地の人々のポートレートなどを撮影させてもらう時、「カメラ目線」で撮るべきかどうかというのは、意見の分かれるところだと思う。僕の知り合いのプロのフォトグラファーの方々にも、「カメラ目線」が苦手という人もいれば、逆に「カメラ目線」を作風の一つとして前面に出している人もいる。

結局のところ、「カメラ目線」で撮るかどうかは撮り手それぞれの好みの問題であって、「カメラ目線」だから写真作品として良いか悪いかが決まるという次元の話ではないのだと思う。「カメラ目線」であるからこそ意味を持つ場面もあれば、逆に目線がカメラに向けられていないからこそ意味を持つ場面もある。

僕の撮ったポートレート写真で世間に知られている作品には、「カメラ目線」の写真が比較的多い。ただ、それは意図的にそう撮ろうとして撮ったのではなく、自分のアプローチとして結果的かつ必然的にそうなったのだ。相手の人と近い距離で向き合い、言葉とか身振り手振りとかいろんなことで互いの気持をやりとりし、その結果として撮らせてもらった(撮らせてもらえない、あるいは僕はあえて撮らないこともある)写真なのだと思う。

その人がレンズとカメラを透かして撮り手自身を見つめていることに、意味があるのかどうか。撮り手がレンズとカメラを透かしてその人を見つめていることに、意味があるのかどうか。「カメラ目線」の場合、それを持ち合わせているのが、たぶん良い写真なのだと思う。