バンコクから深夜便で羽田空港まで戻ってきて、モノレールと電車を乗り継いで、家に向かっていた時の出来事。
浜松町でモノレールを降り、東京駅から中央線に乗り換えるため、京浜東北線に乗った。土曜の朝の車内、席は埋まっていて何人か立っている人がいたが、僕の乗ったドアのすぐ横の席はたまたますぽっと空いたばかりで、僕は膝の間に大きな荷物を抱えつつ、その席に座った。僕の左隣には、キンドルで本を読んでいる若い女の人が座っていた。
次の駅で、喪服姿で白髪の老夫婦が乗ってきた。乗ってすぐに「あとどのくらい乗るの?」「20分くらいかな」という二人の会話が聞こえたので、僕は立ち上がって荷物を担ぎ、席を譲った。老夫婦の奥さんの方が腰を下ろし、旦那さんはその前に立って吊革につかまった。
僕のいた席の左隣でキンドルを読んでいた女の人は、明らかに老夫婦のことに気づいていた。横目でチラッと二人を見ていたから。でも彼女は、微動だにしなかった。吊革につかまってよれっている白髪の男性が目の前にいるのに、自分はキンドルを読みふけっていて彼の存在に気づいていない、というふりをしていた。
すると次の駅で、その女の人の左隣に座っていた人が降りていった。彼女の左隣は空いたままだ。ちょっと腰を上げて30センチほど移動すれば、老夫婦は並んで席に座れる。でも彼女は、またしても微動だにしなかった。肩を妙に縮こまらせて、ひたすらキンドルを読みふけっている、というふりをしていた。
その女の人の一挙手一投足を目の前で見ていた僕は、何というか、驚きを通り越して、呆れてしまった。なぜ彼女は、最初の時もその次も「自分は何も気づいていない」というふりをしたのだろう。最初の機会に気づかないふりをしてしまったから、次の機会に席をずれれば、自分が気づいていたことがばれてしまうとでも思ったのだろうか。わからない。が、何にしても、彼女の視野とものの考え方は、とても「狭い」状態だったのかなあと思う。
タイの電車の車内では、老人や小さい子供が乗ってくると、若い人たちが先を争うようにサッと立ち上がって、さらりとにこやかに「お座りになってください」と言って席を譲る。それはとても自然で清々しく、やらされてる感のかけらもない、気持ちのいい光景だ。敬虔な仏教国の人々ならではの、心に根ざしている教えもあるのだろう。
でも、東京では、電車にそういう身体の弱い人が乗ってきても、見て見ぬふり、気づかないふり、をする人が、前にも増して多くなった。みんな、席に座ってスマホやキンドルをいじってないと、死んでしまうとでもいうのだろうか。
みっともないよ。そういうの、ほんとに。