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ソーシャルメディアのフワフワ感

終日、部屋で仕事。先週取材した分の原稿も、どうにか形になってきた。明日には推敲して納品できそう。

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ソーシャルメディアというものが世の中に広まってから、しばらく経つ。TwitterやFacebookは、今や個人だけでなく、どこの企業も当然のように使っている。Facebookの模倣に終始しているmixiや早くもしぼみかけてるGoogle+はともかく(苦笑)、ソーシャルメディアは今の社会に不可欠なインフラになったと思う。

僕自身、このブログとTwitterの個人アカウントのほかに、ラダック関係のブログとTwitterとFacebookページを運用している。ほとんど放置気味だけど、mixiもGoogle+もアカウントがある。一応、昔はIT系雑誌の編集者だったので、とりあえずひと通りは手を出しているわけだが(笑)。確かに、自宅で仕事をしながらでも、友人たちと他愛のないやりとりができるのは便利だし、ラダックつながりで、見知らぬ人と思わぬコミュニケーションが生まれることもある。自分の今の生活にも、少なからず影響しているなあと思う。

ただ‥‥どうなんだろう? TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアで発する言葉は、とてもフワフワした、心許ないものに感じられる。風に吹かれて飛んでいく、タンポポの綿毛みたいに。手軽なコミュニケーションや情報の拡散には便利だけど、しっかりと届けたい強い言葉を残すには、頼りない感じがしてしまう。ブログは、過去記事がわかりやすい形で残るという点でいくぶんましだけど、それでも軽い存在と感じられる時がしばしばある。

ずっと残したい言葉を、確かな形で届ける。紙の本を作ることの意味は、そういうところにあるのかもしれない、とふと思った。

茶番劇

最近、仕事中はラジオを聴いていることが多いのだが、今日の午後は、テレビの国会中継を横目で見ていた。内閣不信任案の採決の行方を。

今朝の段階では、民主党内から大量の造反者が出て、不信任案が可決されるのではないかという見通しだった。ところが、菅首相が代議士会で「震災の復興に一定のメドがついたら退陣する」と言明したことで、事態は急変。結局、民主党内からはほとんど造反者は出ず、不信任案は否決された。

妙な話だ‥‥。「辞めろ辞めろ」とさんざん責めておきながら、「そのうち辞める」と言ったら、その人を信任するなんて。僕のような青二才が、日本の政治を支える錚々たる先生方にこんなことを言うのも何だが‥‥。

バカじゃねえの? とんだ茶番劇だ。

この人たちには、被災地の人々の苦しみなんて、本当には、これっぽっちも伝わっていない。そう確信した。

原発事故と差別

日本国内だけでなく、今や世界中の関心事となっている、福島第一原発の事故。事態がある程度収束するには、おそらくあと九カ月はかかるという。

今回の事故は、緊急時のバックアップ体制に大きな不備があったことは否めないが、ある意味、途方もない天災によってもたらされたものだ。だが、その一方で、どう考えても不条理な理屈によって発生している人災がある。それは、福島を中心とする被災者の方々に対する差別だ。

被災地から避難してきた子供が「放射能が伝染る」などと他の子からいじめられたとか。福島から来た人の宿泊を断っている旅館があるとか。はては、結婚が決まっていたのに、実家が福島にあるというだけで婚約を解消させられた女性がいるとか‥‥。

許せない。そんな差別をする人は、同じ人間として、絶対に許せない。

放射能に関するごく初歩的な知識も、現状を分析する判断力も持ち合わせず、根拠のない風評に惑わされて恐怖にかられている連中が、そんな愚かな行為に走っているのだと思う。だが、そういう差別をしている人は、自分自身が海外に出かけた時に、ほかの国の人から「触るな!」などと差別されることを想像してみればいい。実際、海外の国々から見れば、日本人全員が被曝してるんじゃないかと疑われているくらい、日本は小さな国なのだ。それとそっくり同じ差別を福島の被災者の方々にしているということを、その人たちは思い知るべきだ。

もう一度書く。そういう差別をする人を、同じ人間として、僕は絶対に許せない。

原発事故について思うこと

東日本大震災が発生してから、三週間が過ぎた。事故を起こした福島第一原発は、未だに予断を許さない困難な状況が続いている。それに関連して、今感じていることをつらつらと。

僕個人としては、福島第一原発の現状について、楽観も悲観もしていない。罹災直後の数日間に比べれば、東京を含む遠方のエリアまで危険な状況に陥る可能性はいくぶん低くなった。しかし、福島第一原発に近い周辺地域の住民の方々に対する安全性の担保は、十分であるとは思えない。政府は、陸上および海上の周辺地域での放射線の計測を綿密に進めて、万全の上にさらに万全を期して、住民の方々を絶対に安全な環境下に保護すべきだ。「今すぐ健康被害が及ぶものではない」などという言葉は、けっして安全宣言にはならない。政府の仕事は、国民を安心させることではなく、安全を確保するための正確な情報を提供することだ。

今回の原発事故への一連の対応や情報開示の不明瞭さという点で、東京電力に一定の非があることは間違いないし、それらに対して、専門家による冷静な分析と批判は必要だ。でも今、専門家でもない人たちが、恐怖に駆られて感情的になって、東京電力に罵詈雑言を浴びせかけることは間違っていると思う。福島第一原発では今も、何百人もの作業員の方々が被曝の恐怖と戦いながら、決死の覚悟で復旧作業を進めている。自分の代わりにそんな危険を犯して作業してくれている人たちに対して、僕は申し訳ない気持とともに応援こそすれ、罵声を浴びせる気にはなれない。

この事故をきっかけに、これから日本では「脱原発」への動きが加速していくだろう。僕もそれには賛成だけど、「今すぐ、日本の原発を全部ストップしろ!」などという後先考えないヒステリックな主張には同意できない。そんなことをしたら間違いなく、日本という国の社会と経済が破綻する。これからどういった形で原発への依存度を段階的に減らし、代替エネルギー源をどのように確保していくか。そのための具体的で実現性の高いロードマップを示すことなく、ただ闇雲に「止めろ! 止めろ!」と主張するのは、無責任だと思う。まあ、こうしたロードマップは、政府がいち早く主導して示すべきものだと思うが。

僕自身、どちらかといえば原発に対して否定的な感情を持ちつつも、その原発で生み出された電力を甘受して暮らしてきたという矛盾を抱えている。まずは少しでも早く、福島第一原発が安全な状態にまで復旧し、周辺住民の方々が安堵できる日が来ることを祈りたい。

小さな痛み

今日は四月一日、エイプリル・フール。もし、何でもいいから、何か一つの出来事を嘘にすることができるなら、三週間前に大震災があったことを嘘にしてほしい。そんな風に思った人は、きっとたくさんいるのだろうな、と思う。僕もその一人だ。

でも、震災が起こってしまった現実は、もうどうにもならない。僕たちはその結果を受け入れ、少しでも早く、被災した人々が窮状を脱し、普通の暮らしを取り戻せるように、自分にできることを一つずつやっていくしかない。

今、誰もが胸に感じている痛み。それは、被災地の人々に比べれば、何百分の一の小さな痛みでしかないのかもしれない。でも、大切なのは、その小さな痛みを忘れないこと。自分が穏やかな時間を過ごしている時も、被災地には悲しみに暮れている人がいるという事実を忘れないことだと思う。

小さな痛みを胸に抱えて、僕たちはこれからを生きていく。