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見つめる先に

夕方、新宿の陶玄房へ。今夜は三井昌志さんと浅井寛司さんとの飲み会。

僕の場合、飲み会で一緒になる人が旅好きか写真好きのどちらかだと、がぜん場の居心地がよくなるのだが、今日のお二人は(当然ながら)その両方をこよなく愛する方々なので、本当に愉しい時間だった。この世の中の全員が旅好き写真好きになればいいのに(笑)。

三人とも旅のスタイルはかなり違うし、興味の向くベクトルもまちまちだけど、それぞれが見つめる先のそのまた先には、どこかにそこはかとなく通じ合うものがあるのかもしれない。人が世界と向き合う時に理屈抜きで感じる何かが。

またいつか、同じ顔ぶれで、それぞれの旅の報告ができるといいな、と思う。

足跡のない荒野

一昨日、昨日と、僕が仕事でいかにほかの人と競い合わないようにしてるかということについて書いたが、じゃあそれで毎日ラクに過ごせてるのかというと、まったくそんなことはない。むしろ、足跡のない荒野を突っ切ろうとしてる時点で、人よりしんどい思いをしてるのではないかと思う。

一冊の本に自分の思いの丈を込めて作り上げるという作業は、本当に、ものすごい量のエネルギーを消費する。そもそも本を出せるような状況に持っていくには、それだけで何カ月も、場合によっては一年以上もかけて、時に理不尽なことにも耐えながら粘り強く交渉し続けなければならない。いろんなものごととの戦いで、ほんと、ヨレヨレのボロボロになる。今も割とそういう状態に近い(苦笑)。

こんなにつらいなら、やめてしまえばいいじゃないか、と思う時もある。もっとラクな立ち位置に逃げてしまえばいいじゃないかと。でも、やっぱり、ここから逃げるのは、自分の心に背くことなのだ。心の底から作りたいと思える本を作ることのできる可能性があるのなら、それがゼロにならないかぎり、みっともなくてももがき続けるのが、自分の選んだ道なのだと思う。

だからこれからも、誰もいない、足跡のない荒野を歩く。

足りないものに気付く

文章や、写真や、本づくりの仕事には、ある一定のラインを越えているものなら、基本的に勝ちも負けもない、と僕は思っている。あるとすれば、作り手自身が自分の作品に納得できているかどうか、だけだ。もちろん、今の世の中には、文学や写真の賞、売上ランキング、仕事ならコンペなど、いろんな競い合いの第三者によるものさしがあるけれど、そのものさし自体が本や写真や文章を生み出す純粋な動機にはならないと思うし、してはいけないとも思う。

そんな風に思っている上に、もともと自分の実力にも自信がないので、僕はこれまでずっと、競い合いを避けてきた。自分がこだわって取材するようになった場所には競うような物好きな人は誰もいなかったし、仕事で作る本も、ほかに誰も思いつかないようなアマノジャクな企画ばかり。自ら賞レースやコンペに挑むこともしない。誰とも競わず争わず、のらりくらりと世を渡り歩いてきた。

今年の春先、僕にしては珍しい仕事の相談が来た。とある企業のカレンダーをデザインしている制作会社の方から、来年版のカレンダーに起用する写真家の候補に僕を入れたい、と。複数の写真家の作品でコンペを行って、一人を採用するのだという。

慣れない依頼に、正直戸惑った。僕の場合、写真のみでの仕事の割合は全然少ないし、業界でもまったく無名の存在の僕をどこで見つけたのか、もしかすると絶対本命の写真家をクライアントにスムーズに採用してもらうためのかませ犬なのかもとか(笑)、ちょっと考えてしまった。でも、そのカレンダーで過去に起用された方々は、泣く子も黙る大御所から知人でもある気鋭の若手まで、ちょっと引くほどの錚々たるラインナップ。僕の名前を同じ俎上に上げてもらっただけでも光栄なことだな、と、検討をお任せすることにした。

で、結果的にそのコンペでは、別の写真家の方が起用されることになったのだが、一時的にでもほかの方と比較される立場に置かれて、僕自身、今の自分に足りないものがたくさんあることに、あらためて気付く機会になった。自分だけで企画する以外の仕事でもうまくフィットできるような、柔軟性とか、幅の広さとか、掘り下げる深さとか、その他いろんなことに。だから、こういう経験をしてよかったなあと素直に思う。

競い合うことには慣れないし、これからも自ら進んでそういう場所に踏み込もうとは思わないけれど、たまの巡り合わせでこんな経験をすると、気付けることや得られるものもある。競わないなら競わないで、自分自身の取り組みやこだわりに黙々と磨きをかけることはできる。

そんな日々の経験に学びつつ、これからも、のらりくらりとやっていきます(笑)。

同じ場所へ

午後、銀座のキヤノンギャラリーで開催中の大塚雅貴さんの写真展「サハラの風」へ。大塚さんご自身によるギャラリートークを拝聴させていただく。

大塚さんはサハラ砂漠、特に近年はニジェールの辺境の地に暮らす人々の姿を撮影している。砂漠の中に舞う鮮やかな民族衣装と、輝く黒い瞳。同じ場所に何度も通うことで少しずつ培った信頼関係があればこそ撮ることのできた、素晴らしい作品の数々だった。

世界各地を撮る写真家には、大きく分けて、移動をくりかえしながら新鮮な感動を探し続けるタイプの人と、同じ場所に何度も通って求めるテーマを深掘りし続けるタイプの人がいると思う。大塚さんは間違いなく後者だし、僕もおそらくそうだ。もちろん、同じ場所といっても広いから、その中でいろいろ動き回ったりあれこれ試したりするのだけれど。

僕の場合、ラダックで深掘りし続けているうちに、だんだん自分自身の個性とかこだわりとかが消えて透明になっていくような感覚を感じていた。そこに居合わせて、あるがままを撮り、書く、そんな感じ。人それぞれ、いろんなアプローチがあるのは当然だし、それぞれ違ってるからこそ面白いのだけれど。

そんなわけで、今月末から僕は、また同じ場所へ戻ることになる(笑)。

繋ぎ止めるもの

昼、綱島のポイントウェザーさんへ。マトン・ローガンジョシュのランチカレーセットをいただきつつ、店内で行われている有志の写真家の方々によるネパール写真展を見させていただく。

僕たち人間は、忘れっぽい生き物だ。震災の被害に喘ぐネパールのことも、戦禍に踏みにじられているシリアのことも、ともすると心の中で薄れていってしまう。今回のような写真展は、そうして薄れていきがちな記憶を繋ぎ止めるための役割を果たしているのだと思う。それはもしかすると、募金集めと同じかそれ以上に大切な役割かもしれない。

一番残酷な仕打ちは、苦しみの渦中にいる人たちのことを、忘れてしまうことだから。写真や文章には、そうはさせないための力がある。