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カメラマンと体幹

今年の初めから、腕立て伏せ、腹筋、プランク、スクワットといった部屋の中でできるエクササイズを継続的にやってきて、具体的に効果があったと実感した点は、「カメラバッグを担ぐのが楽になった」ことだと思う。

カメラバッグに関しては、数年前からほぼバックパックタイプに切り替えている。機材が少なめの時はロープロのプロタクティック350AW。80−400mmの望遠レンズなどで機材が多めの時は、同じくロープロのプロランナーBP450AW2。どちらも機材がぎっちり入っているとかなり重く、長い時間背負っていると、特に背中から腰にかけてのあたりが疲れやすかった。

でも今年の夏の取材では、カメラバッグの重さが、去年までに比べるとあまり苦にならなかった。たとえば、ザンスカールのプクタルに歩いて向かった時、標高4000メートル近い場所の山道を機材がめいっぱい詰まったカメラバッグを背負って歩いていても、腰や背中はまったく平気だった。腹筋とプランクの習慣で、普段から体幹の筋肉をまんべんなく使えていたからだと思う。移動中や撮影中に身体がきつく感じないというのは、それだけ撮影に集中できるという意味で、ものすごく大きなメリットだと思う。腰痛の防止にもなるし。

年々おっさん化が進むにつれ、何もしないでいると、筋肉もしぜんと衰えていってしまう。これからも疲労に気を取られずに撮影し続けられるように、エクササイズの習慣は続けていこうと思っている。

あのカメラを手に入れる人へ

涼しいというか、肌寒いくらいの天気。午後から新宿へ。メインで使っているカメラをニコンのサービスセンターで点検してもらうのと、古いカメラとレンズをマップカメラで下取りしてもらうために。

今回下取りに出したニコンのD300Sと16−85mmの標準レンズは、以前はメインの機材として、本当にいろんな場所で活躍してもらってきた。チャンタンの荒野、濁流渦巻くカルナク、そしてザンスカールも。レンズを一度、軽く調整してもらったくらいで、トラブルはまったく起きなかった。

愛着というか、未練というか、そういう気持はもちろんある。でも、カメラもレンズも使ってナンボだし、それに僕は一応、プロだ。仕事の質を上げていくためには、年末頃までに新しいフルサイズ一眼レフを導入した方がいいという結論に達した。仕事で出番のなくなったカメラとレンズは、ちゃんと使えるうちに、新しい持ち主のもとで第二の人生を歩んでもらえた方がいい。

いつの日か、どこかの誰かが、あのカメラとレンズを手に入れたなら、いったい、何を撮るのだろう。自分の子供か、空を飛ぶ飛行機か、はたまた路地裏の猫か。できることなら、その人にこっそり伝えたい。そのカメラは、遠い遠いインドのヒマラヤの荒野を、ずっと旅してきたのだと。

キックオフ

水曜日は夕方から、八丁堀にある出版社で打ち合わせ。来年の春に出す予定の新しい本を作るための、版元の編集者さんとのキックオフミーティング。制作予算の内訳、発売までのスケジュール、発売後のプロモーション戦略、あとは本のタイトルとか、ページ配分とか……。今回の編集者さんと組んで本を作るのも、これで三冊目。気心の知れた者同士で組める安心感。いい本を作れそうな手応えはあるし、いい本を作らなければならないとも思う。

打ち合わせを終えた後、ひさしぶりに飲みに行きましょう、ということで連れて行かれた近くの店は、茨城県大洗町のあんこうを使った料理がウリの店。「うまいですよ〜」と言われたのだが、あんこうは7、8月が禁漁期で、次に水揚げされたあんこうが入荷するのは来週とのこと。まあ仕方ない。刺身の盛り合わせやメバルの煮付けをいただきつつ、編集者さんとサシで飲みながら、仕事のこと、旅のこと、いろんな話をした。

さあ、いよいよ、本づくりの始まりだ。がんばろ。

明日からインドへ

昼、渋谷へ。モンベル渋谷店で開催された三井昌志さんの帰国報告会を拝見する。注目していたミャンマーのロヒンギャ問題についてのレポートは、ミャンマー側の村だけでなく、バングラデシュ側から国境付近にあるロヒンギャの難民キャンプを訪れた際の話が興味深かった。こういう問題は、現地取材によって事実に基づく情報を積み上げていかないと、なかなか全容が見えてこない。三井さんは写真のスキルだけでなく、行動力や実行力の面でももっと評価されるべき人だと思う。

終了後、知人たちとマメヒコでコーヒーを飲んで別れ、夕方からはリトスタで恒例の最後の晩餐。今回もいろいろおいしくいただいた。明日の朝は4時起き。目覚ましに反応してちゃんと起きて、最後の身支度と家を留守にする作業をしてしまえば、あとは出発するだけだ。はー。がんばろ(苦笑)。

帰国は8月26日(土)の予定。それまでこのブログの更新もしばらくお休みします。では。

100パーセントと120パーセントの差

僕は何かの仕事に取り組む時、力を100パーセント出す場合と、120パーセントまで振り絞る場合がある。以前、人にこう話すと、「普段から常に120パーセントの力を出す心構えでは臨めないの?」と返されたことがあった。うーん、違うんだな。そうじゃない。少なくとも僕にとって、100パーセントと120パーセントとの間にある差は、心構えで埋められる類のものではない。

普段の仕事……フリーライターとしての取材と執筆、雑誌記事やガイドブック制作のための撮影、それらをまとめるための編集作業などでは、絶対に気を抜かず、もちろん手も抜かず、万全の仕上がりを目指して、100パーセントの力を出す。この仕事をしている身としては、当然の姿勢だ。そうでなければ、あっという間に信頼を失い、食いっぱぐれてしまう。

では、そこからさらに、120パーセントまで力を振り絞ろうとするのは、どんな時か?

これまでの自分をふりかえっても、そこまでとことん追い詰められた経験は数えるほどだが、そういう時は……その仕事自体が、自分自身のとても個人的な部分にある動機と、分かち難く結びついていた。その仕事に取り組む時は、普段の力を全部出すのはもちろん、自分自身の個人的な部分、弱さや情けなさも含めて、否応なく向き合い、自問自答をくり返さなければならなかった。ひとことで言うと、魂を自分で削っていくような、そんな感覚。

100パーセントの時も、120パーセントの時も、目の前の作業に対して出している力自体は、ほぼ同じだと思う。20パーセント分の差は、自分自身と向き合って戦うかどうかの差。その戦いの結果は、目に見える形で現れるとは限らない。でも、どこかに何かしら、寄り添う影のように残る。

そういう、自分自身と戦わなければ後悔するような仕事とは、生きている間に、たまにめぐり会う。