Tag: Outdoor

キリンを撮る

この間の南アフリカ取材では、ピーランスバーグ国立公園で大小いろんな種類の野生動物の写真を撮った。何しろ相手は動物なので、簡単に撮れるようなことはほとんどなく、いつも右往左往しながら連写を重ねて、当たりが混じるように祈るような撮り方しかできなかった。

たとえば、ゾウのように図体の大きな動物なら、ある程度距離が近ければいくらでも好きなように撮れると思いがちだが、納得のいく表情の写真を撮ろうとすると、ゾウはなかなか手ごわい。長い鼻がしょっちゅうくるんくるん動くので、中途半端にフレームから外れたり、しっくりこない形になったりしてしまう。

一番苦労させられたのは、キリンだった。背の高い草食動物ならではの警戒心の強さもあるが、いざ撮れそうな位置にポジショニングできても、あの長い首はものすごく厄介だ。右に左にゆらゆら傾いて、顔にフォーカスを合わせてもすぐに外れてしまったり、首の先だけひょいとフレームアウトしてしまったりする。あれには本当にあたふたさせられた。

動物撮影の経験値を積むのには確かにいい機会だったけど、あの分野の奥の深さを思い知らされたのも確か。ネイチャーフォトグラファーの人たちって大変だ、ほんとに。

自然の掟

zebra
10日間の南アフリカでの取材を終え、昨日の夜、日本に帰ってきた。

プレスツアー特有の窮屈さと時間のなさはあったものの、初めて訪れたアフリカ最南端の国での日々は、確かに得難い体験だった。特に旅の終盤、ピーランスバーグ国立公園で野生動物の姿を追いかけた二日間は、自分にとって良い経験になったと思う。

ジープで原野を走っている時、写真ではまともに撮れないほどはるか彼方を、ライオンの群れが獲物を追って全速力で駆けている姿を見た。別の場所では、ずっと以前に息絶えた後、ジャッカルやハイエナに肉も骨も食べ尽くされ、皮だけになったキリンの亡骸を見た。そこは動物園などではなく、命のやりとりが日々当たり前のように行われている自然の中なのだということ。そうした自然の掟が支配する中では、一人の人間は本当にちっぽけで無力な存在でしかないことを、身をもって感じた。

あの大陸の大地を、いつかまた、踏みしめる日が来るのかもしれない。

「若さは向こう見ず」

yjhd日本の映画館のスクリーンで観ることを長い間待ち焦がれていた作品を、ついに目にすることができた。「Yeh Jawaani Hai Deewani」、邦題「若さは向こう見ず」。去年のIFFJでの上映時は観ることができず(というかその時期は毎年タイ取材なので)、このまままともに観られずに終わるのかとかなりやきもきしていたのだが、本当にようやく、念願が叶った。

勉強ばかりの生真面目な生活に飽き飽きしていた医学生のナイナは、街で会った高校時代の同級生アディティが参加するマナリへのトレッキングツアーに自分も行こうと思い立つ。そのツアーには、高校の頃から人気者だったバニーとその友達アヴィも来ていた。世界中を旅しながら生きていきたいと語るバニーの自由奔放さに、振り回されながらも惹かれていくナイナ。しかしバニーは、3週間後にインドを離れてアメリカに渡る決意を固めていた‥‥。

物語の主軸はよくできたおとぎ話のようなラブストーリーなのだが、それと同時に、前半はナイナが一人の女性としての自分に目覚めて解き放たれていく物語、後半は世界を旅し続けてきたバニーがそれまで見過ごしていた大切な何かに気付いていく物語と、二人をはじめとする登場人物たちの成長を見守る物語にもなっている。各場面の描写は丁寧で美しく、台詞も気が利いていて、時にぐっと心に刺さる。個人的には、それまでほとんど出番のなかったバニーのお義母さんが終盤になって彼に語った台詞が、いろんな意味で自分自身にもシンクロする部分があって、かなり泣けた。

ヒット曲揃いのダンスシーンも、ここ数年来のインド映画の中では抜群の出来。最初から最後まで存分に浸って楽しんで、すっきりした気分で映画館を後にできる作品だ。スクリーンで観ることができて、本当によかった。

ウィリアム・プルーイット「極北の動物誌」

Animals of the Northウィリアム・プルーイットの名を知ったのは、たぶん他のほとんどの日本人がそうであるように、星野道夫さんの「ノーザンライツ」を読んだのがきっかけだった。

星野さんはこの本の冒頭で、かなり多くのページを割いて、かつてアラスカで実施が検討されていたという核実験計画「プロジェクト・チャリオット」について書いている。その核実験計画に対してアラスカで展開された反対運動で重要な役割を担ったのが、当時、アラスカ大学でもフィールド・バイオロジストとして右に出る者のいない存在であったプルーイットだった。核実験場の候補地に挙げられていたケープ・トンプソンの環境調査を担当した彼は、核実験で放出される放射能が極北の生態系に壊滅的なダメージを与えてしまうという調査結果を報告したのだ。

その後の根強い反対運動が功を奏し、プロジェクト・チャリオットは中止に追い込まれた。だが、それと引き換えに原子力委員会からの見えない圧力を受けるようになったプルーイットは、大学での職を追われ、アラスカだけでなくアメリカからも離れざるを得なくなり、カナダに移住し、そこで極北の自然についての研究を続けることになった。アラスカ大学での彼の名誉が回復されたのは、それから30年も経ってからだった。

1967年に刊行された彼の著書「Animals of the North」が、日本で「極北の動物誌」という本に翻訳されていたのを僕が知ったのは、もう新品が店頭に並ばなくなってからのことだった。残念に思っていたのだが、少し前に、状態のいい古本を手に入れることができた。ゆっくり、時間をかけて、かみしめるように味わいながら読んだ。

トウヒの木。アカリス、ハタネズミ、ノウサギ、オオヤマネコ、オオカミ、カリブー、ムース。極北の自然とその中で生きる動物たちの営みを、プルーイットの訥々とした筆致は、丁寧に、正確に、そして、鮮やかに描き出していく。膨大な時間をかけて、自ら原野を旅し、調査を重ね、見つめ続けた者にしか書けない文章だ。これ以上ないほど抑制の効いた文章なのに、そこからあふれて滲み出ているのは、極北の自然に対する彼の憧れと畏敬の念、そして愛情としか言いようのない思い。生命の尊さと儚さ、それらが巡り巡るからこそ、自然は自然たりうるのだということ。同時に彼は、現代社会に生きる我々人間が、そうした自然の摂理をいとも簡単に踏みにじり、時に回復不能なまでに傷つけてしまうことに鋭い警鐘を鳴らしてもいる。

極北の自然を愛し、その研究に一生を捧げた男。愛する自然を守ろうとしたがゆえに、アラスカから去らねばならなくなった男。彼の遺したこの「極北の動物誌」は、これからも折に触れて読み返しては、ツンドラの冷たい風の感触を思い出してぼんやりと物思いに耽りたくなる、そんな一冊だった。

腑に落ちる

昨日の夜、またしても丑三つ時だったのだが、ベッドに横になってうとうとしてる時に、ぽん、と思いついたことがあった。

それはずいぶん長い間、かれこれ一年近く、どう扱ったものかと思い悩んでいた文章についてのアイデアだった。思いついてしまえば、ある意味とてもオーソドックスな落としどころだったのだが、そっか、それでいいのか、と、僕としてはものすごくすっきりと腑に落ちた着地点だったのだ。まあ、目前の仕事に直接関係のない文章だから、こんな風に今まで頭の中で転がし続けることができたのだが。

とはいえ、これはまだほんの始まりで、これからずんずん、深く深く、潜っていかなければならない。いつかこれを、納得できる形で人に見せられるといいな。