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「’96」


インディアン・ムービー・ウィーク2019が開催中のキネカ大森で3本目に観たのは、タミル映画の「’96」。ヴィジャイ・セードゥパティとトリシャーが主演の、タミル映画には割と珍しい(らしい)大人同士のしっとりした恋愛モノということで、観ることにした。

旅行写真家のラームは、故郷の町をたまたま訪れたことがきっかけで、高校時代の級友たちとの20年ぶりの同窓会に参加することになる。その会場で、かつてお互いに意識する同士だった初恋の女性、ジャーヌと再会する。翌朝のフライトで家族と住むシンガポールに戻るというジャーヌと夜のチェンナイの街をそぞろ歩きながら、二人は互いのこれまでの人生を打ち明ける……。

この作品、評価は観る人によって分かれるとは思うのだが、個人的には、正直言って、うーん……という感じだった。理由としては、3つほどある。

1つには、物語の設定についての素朴な疑問。主人公の二人は、とある理由で離れ離れになり、20年以上も連絡が途絶えていたというのだが、その一方でラームはほかの級友とはそれなりに連絡を取り続けていたという。それで互いの消息が人づてにまったく伝わらなかったというのは、普通に考えるとありえない。そこが気になってしまって、「んん?」とならざるを得なかった。

2つめは、僕が個人的に苦手に感じているインド映画特有の恋愛価値観のようなものが、予想以上にテンコ盛りだったこと。ネタバレになるので詳しくは書かないが、この作品に限らず多くのインド映画では、主人公がヒロインに朝から晩まで執念深くストーカー気味につきまとうのが、男としての愛情の深さを示している、という描写をしている例が非常に多い。でもそれは、やっぱり、今の時代とは相入れない価値観だと思うのだ。その点もどうしても受け入れられなかった。

3つめは、個人的に、主人公ラームに共感できなかったということ。外見はクマかライオンみたいにごついのに性格は内気で意気地なしという設定はわかるのだが、それにしても、さすがにうじうじしすぎだろ、と(苦笑)。人生で一番大切な思い人なら、執念や未練ではなく、勇気と決断で向き合って、踏み出すべき時に一歩を踏み出してほしかった。

……あと、職業が自分とまったく同じというのは、かなりこそばゆかった(苦笑)。旅行写真家って、インドではあんな風なイメージなのか。

「サルカール 1票の革命」


キネカ大森で開催中のインディアン・ムービー・ウィーク2019で2本目に観たのは、ヴィジャイ主演のタミル映画「サルカール 1票の革命」。この作品、以前、エアインディアの機内で英語字幕で観たことがあったのだが、作品の主題がタミル・ナードゥの州議会選挙という少々ややこしいものだったので、日本語字幕でもっと細かい情報を追えればと思い、再度観ることにした。

米国で巨大IT企業のCEOに君臨するスンダルは、故郷タミル・ナードゥの州議会選挙に一票を投じるため、自家用ジェットで一時帰国する。投票所に足を運んだスンダルは、正体不明の何者かが、彼になりすまして投票を終えていたことを知る。投票の権利を勝ち取るために調査に乗り出したスンダルは、選挙で横行する不正の数々と政治家たちの腐敗ぶりを目の当たりにし、自ら行動を起こす決意を固めるのだが……。

日本語字幕であらためて観ると、この作品、タミル・ナードゥ州の実在の地域政党への痛烈な皮肉が随所に織り込まれていたのがよくわかった。映画祭の公式アカウントがモーメントにまとめた現地事情を事前に読んでおくと、さらにわかりやすい。かといって、そういった知識を全部理解していないとダメかというとそんなことはまったくなく、タラパティ・ヴィジャイらしい爽快なアクションと破天荒なストーリーは、深い予備知識なしでも十分に楽しめると思う。

何より、この作品が伝えようとしている「かけがえのない1票を大切に」というメッセージは、タミル・ナードゥやインドだけでなく、今の日本社会にも通じるものだ。どうせ何も変わらないからとあきらめたら、絶対に何も変わらない。何かを変えられるとしたら、それは、一人ひとりの持つ1票以外にない。世の中には1日だけ、政治家ではなく市民一人ひとりが力を持てる日がある。だから投票日には、必ず選挙に行こう、と。

インドではそんなメッセージが、こんなにもアツい娯楽大作映画になるのだった。

「バレーリーのバルフィ」

9月にキネカ大森で開催されているインディアン・ムービー・ウィーク2019。そのラインナップの中に、気になってはいたもののエアインディアの機内では見逃していた「バレーリーのバルフィ」が入っていたので、これ幸いと観に行った。

地方都市バレーリーで暮らすビッティは、父親譲りの男勝りな性格が災いしてか、お見合いをしても失敗続き。家族からのプレッシャーに耐えかねて夜更けに家出した彼女は、駅の売店でたまたま買った「バレーリーのバルフィ」という本の主人公が、なぜか自分にそっくりなことに驚く。その小説は、バレーリーで印刷業を営むチラーグが、失恋の傷を癒すために勢いで書いたものの、元カノに迷惑をかけないために、気弱な友人プリータムの名前を使って出版したものだった。「著者」のプリータムに会うための手がかりを探してチラーグの印刷所を訪れたビッティに、ひと目ぼれしてしまったチラーグ。でも、自分が著者だとは言い出せず……。

この作品はもう、プリータムを演じたラージクマール・ラーオの独壇場だったと言っていい。超がつくほど気弱な性格からの笑っちゃうくらいの豹変ぶりは、彼の演技力がなければ到底表現できなかっただろう。主役のアーユシュマーン・クラーナーの邪悪な演技も笑えたし、ヒロインのクリティ・サーノーンもさばさばした性格のヒロインをバランスよく演じていた(ソーナム・カプールだったらもっと華やかになったかもと思わなくもなかったが)けど、特に後半は、ラジクマの一挙手一投足に目が釘付けだった。

物語自体は、リアリティ云々はともかく、うまい仕掛けだなあと思わせる部分が随所にあって、面白かった。お金のかかった娯楽大作ではないけれど、観終わった後に多幸感に包まれる、インドらしいハートフル・コメディだった。

「ガリーボーイ」


10月中旬から日本国内で公開されるインド映画「ガリーボーイ」。インド本国で公開されたのは今年の初め頃だったから、一年経たずに日本にも上陸という、今までにない早さだ。僕は9月末から3週間半ほど取材でタイに行くので、映画館で見るのは帰国してからかなと思っていたのだが、昨日新宿ピカデリーで、ゾーヤー・アクタル監督と脚本家のリーマー・カーグティーを迎えての「ガリーボーイ」ジャパンプレミアが。この機会を逃すまじと、観に行ってきた。

今年の1月から3月までインドにいた時、ホテルの部屋でテレビをつけると、「ガリーボーイ」のMVがものすごいヘビーローテーションで流れていた。僕も帰国直前に、デリーのコンノート・プレイスの映画館でこの映画を観ようかなと考えていた。ただ、この映画の主題はラップである。日本語どころか英語字幕もない状態では、画面の雰囲気だけしか感じ取れないのではと思い直し、結局観なかった。それは正解だったと思う。今回のジャパンプレミアで、藤井美佳さんによる日本語字幕の付いた状態で観て、この映画の魅力は「言葉の力」の強さであることを、あらためて実感した。

主人公ムラドがノートやスマホに書きつけ、マイクを手に叫ぶ言葉は、激烈で、美しく、悲しみと怒りに満ちている。ムンバイのスラムで生まれ育った彼は、理不尽なほどの身分と貧富の格差にがんじがらめにされ、夢を見ることすら許されない。医大生で恋人のサフィナも、生活は豊かだが人生を選ぶ自由を奪われた、籠の中の小鳥だ。彼らは胸の奥に、炎のような怒りを抱えて生きている。終盤のラップバトルの場面で、ムラドが自分の左胸に何度もマイクを叩きつける姿が、その怒りの激しさを象徴していたと思う。

以前から「クローゼット・ラッパー」だったというランヴィール・シンが自身の声で歌ったラップは、完璧を通り越して凄まじいクオリティだった。「ラームとリーラ」「バージーラーオとマスターニー」「パドマーワト」などで彼が演じてきたのとはまったく違う寡黙で控えめな役柄だったが、だからこそラップでの爆発が活きる。強烈に振り切れた性格のサフィナはアーリヤー・バット以外では演じられなかっただろうし、MCシェールやスカイなど、その他の登場人物もきっちり描かれていて、魅力的だった。何より、ムンバイという巨大都市の抱える理不尽な現実そのものが、この作品に圧倒的な説得力をもたらしていたように思う。

「路地裏の少年」たちは、言葉と音楽の力で、呪われた運命を切り拓く。その姿に、勇気に、喝采を送らずにはいられない。

「あなたの名前を呼べたなら」

この作品の原題は「Sir」。作中で主人公ラトナが雇い主のアシュヴィンに対してたびたび使う「旦那様」という呼びかけの言葉だが、ここから邦題を「あなたの名前を呼べたなら」としたのは、本当に秀逸。見事だと思う。

ムンバイ出身の女性映画監督、ロヘナ・ゲラの長編デビュー作であるこの作品は、2018年のカンヌ国際映画祭批評家週間でGAN基金賞を受賞したという、世界的には折り紙つきの評価を得ている作品なのだが、なぜかインド国内では現時点でまだ上映されていないのだそうだ。その原因は、この映画がインド社会の格差問題を深く掘り下げていることが関係しているかもしれない。

ムンバイの高層マンションで住み込みのメイドとして働く女性、ラトナ。彼の主人アシュヴィンは、結婚相手の浮気が発覚して結婚式自体が取りやめになった直後で、落ち込んで鬱々とした日々を送っていた。家事をしながらひっそりと見守るラトナは、自分は19歳の時に結婚させられたが、病気であることを隠していた夫が4カ月後に亡くなり、未亡人になってしまった、と打ち明ける。村では未亡人になったら人生終わりと言われたが、私の人生はまだ続いている、と。ファッションデザイナーになる夢を捨てずに裁縫の勉強をしたいと意気込むラトナとの毎日に、少しずつ信頼と安らぎを感じはじめるアシュヴィン。しかし二人の間には、身分、経済力、教養という、インド社会では越えることのできない格差の壁があった……。

物語のほとんどは、ムンバイの高層マンションに暮らすアシュヴィンの家の中で展開される。静かで淡々とした時間の中で、ラトナ役のティロタマ・ショーム(「ヒンディー・ミディアム」でいささかイカれたお受験コンサルタントを演じていたのと同一人物とは思えない!)とアシュヴィン役のヴィヴェーク・ゴーンバルの抑制の効いた演技が、互いの心の揺れを丹念に紡ぎ出していく。現代の社会においてさえ、名前で呼ぶことすらかなわない、身分違いの恋。二人はその理不尽なしがらみに屈するのか、それとも飛び越えるのか。

特に、あのラストシーン。個人的には、最高だと思う。良い映画なので、映画館で、ぜひ。