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マニュアル通りの人生なんて

午後、高田馬場で取材。結構長丁場で、内容も難しくて大変だったが、どうにかやり遂げる。終わった後、さかえ通りの洋庖丁で晩飯を食べ、東西線で三鷹に戻る。

電車の隣の席で、大学生らしき男の子が、付箋やマーカーがびっしりの本を読み耽っている。終点の三鷹に着いて客が全員降りたのも気付かないくらい、一心不乱に。最初は勉強熱心だなあと感心していたのだが、ふと横目で本のページを見ると、それは就職面接のマニュアル本だった。

うーん、どうなんだろ。人それぞれいろんな考えがあるんだろうけど‥‥。就職の面接って、マニュアル本を読み込めばクリアできるようなものなの? ありのままの自分を出して、素直に会って話をしてくれば、それでいいんじゃないかと思ってしまうのだが。

少なくとも、僕は嫌だな。ただマニュアル通りに動くだけの人生なんて。

奥華子「君と僕の道」

「君と僕の道」約一年間の充電期間を経て、先日リリースされた奥華子の新しいアルバム「君と僕の道」。聴いてみて感じたのは、いい感じに肩の力が抜けた、等身大の彼女に近いアルバムだな、という印象だった。特に「ピリオド」と「10年」という曲は、初めて聴いた瞬間にぐっと胸に迫るものがあった。

暗い淵に佇むような曲もあれば、眩しさに目を細めたくなるような曲も、時を経ても変わらぬ絆をふりかえる曲も、傷だらけになりながらも前に進もうとする曲もある。そのどれもが、現時点での素の彼女自身から生まれた音楽だし、その曲たちを「今はこれでいいんだ」と彼女自身が肯定した上で、聴き手に差し出しているのがわかる気がする。それは、彼女自身があるがままの自分をポジティブな気持で捉え直したということでもあるのだろう。

今までに選んできた道が結果的に遠回りだったとしても、それを否定したり後悔したりする必要はない。大切なものを失った悲しみも、二度と立ち直れないと思えるほどの苦しみも、すべてはきっとこれからの道につながっていく。人間はしょっちゅう泣いたり笑ったり迷ったりしながら、それぞれの道を辿っていくのだと。

僕の道は、これからどこにつながっていくのかな。

去り行く人

午後、八丁堀で取材。今日は春の嵐が来ると天気予報に脅されていたが、取材がスムーズに終わったこともあって、行きも帰りもほとんど濡れずにすんだ。これを書いている今、窓には雨粒がひっきりなしに打ちつけている。

取材に行く電車の中で、友人のご家族の訃報を知った。僕自身は数回お見かけしたことがある程度なのだが、去り行く人の報せは、何ともやりきれない。それが、どんな人のもとにも等しく訪れるものであったとしても。

僕たちにできるのは、これからの日々の中で、自分にできる何かを、一つひとつ、丁寧に積み上げていくこと。そうして生きていけること自体の有難さを、あらためて感じておかねばと思う。

一人と、誰かと

「ヤマタカさんは、旅先とかでずーっと一人でも、全然平気なタイプですよね?」

今までに何人かの人から、こういう指摘をされたことがある。そうかもしれない。ホームシックとか単に人恋しいとかいった気分になったことはついぞ記憶にないし、特に旅先では、異国で一人ぼっちでいる状況にこそ、ぞくぞくするような喜びを感じるタイプだ。日本にいる時でも、友達付き合いはたぶんかなり悪い方で、自分から積極的に「飲みに行こうよ!」なんてことはまず言い出さない。

じゃあ、一人でいられればそれで十分なのか、満足なのかと聞かれると、それはちょっと違う、とも思う。普段何も問題がない時は一人でも平気だけど、何か困ったことが持ち上がった時、自分一人ではどうにもならない苦しみに陥った時、へこたれそうな自分を支えてくれるのは、間違いなく周囲にいてくれる大切な人たちだ。今までだって、何度もそうして支えてもらってきた。

「ラダックの風息」の最終章に書いた言葉は、そうした経験から出てきたものだったと思う。

時には、大切にしていた絆が、どうにもならない強い風に引きちぎられてしまうこともある。でもそんな時は、きっとほかの絆が支えてくれる。つなぎ止めてくれる。そして人はまた立ち上がって、前を向くことができる。そう、できるはずなのだ、僕たちにも。

三年前の震災の時も、僕たちはともするとぽきっと折れてしまいそうな心を、一緒に集まってごはんを食べたり、メールやツイートをやりとりしたりして、支え合っていたんじゃないかと思う。自分の周囲にいてくれる大切な人たちのことを忘れないこと。そして、苦しんでいる誰かを支えてあげられる力を少しでも身につけること。あれから三年という節目の日を迎えて、あらためてそう思う。

キャッチボール

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

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年末年始の数日間は、岡山の実家で過ごした。近くに住む妹一家が泊まりに来たりしていたので、なかなか一人でくつろがせてはもらえなかったが(苦笑)。

大晦日の朝、母が僕に「ケン(上の甥っ子)とキャッチボールをしてきたら? あそこの公園で」と言った。その前の日、甥っ子は彼のパパに新しい子供用グローブとボールを買ってもらっていたのだ。

「いや、でも俺が使えるグローブないし」
「あるよ、外の物置に。お父さんのが」

そのグローブは、他界した父が少なくとも四十年前から使っていたものだった。元の色がわからないくらいに色褪せ、革ひもが切れてしまった部分は父が別の適当なひもで繕ってあった。へにゃへにゃで心許ないが、子供が相手なら使えなくはない。僕はそのグローブを手に、生まれて初めてのキャッチボールに舞い上がる甥っ子と、近くの公園へ歩いていった。

甥っ子くらいの年の子供を相手にキャッチボールをするのは、僕にとっても初めての経験だった。甥っ子が投げるボールはしょっちゅうとんでもない方向に飛んでいくし、こっちがゆるく投げ返しても怖がって逸らせてしまうしで、なかなかテンポよくとはいかなかった。それでも時々、スパン、とボールがグローブに収まる乾いた音を聞くと、僕は不思議な気分にならずにはいられなかった。

子供の頃、僕は父と、家の前の道路でキャッチボールをしていた。僕はそんなに運動神経がいい方ではないし、野球もあまり好きではなかったのだが、父とキャッチボールをするのは楽しかった。ピュッ、と投げたボールが、スパン、とグローブに収まる。ただそのくりかえし。でも、その時の感触は、今も記憶の深いところに残っている気がする。

あの時、子供の僕が投げたへなちょこボールを受け止めていた父のグローブを、今は僕が手にはめて、甥っ子のボールを受け止めている。ピュッ、スパン。ピュッ、スパン。甥っ子の心の中にも、このキャッチボールの感触は残っていくのだろうか。