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自宅で沈没

ここ数日、ほとんど何もしていない。ただただ、ぼんやりとしている。家にいても、パソコンをちょっといじっては、ソファにごろんと寝そべって、つかの間うとうとしたり。本も読まず、テレビも見ず、ひたすらぼんやり。

夏バテというわけではまったくなく、むしろ食欲旺盛で、自分でカレーをたっぷり作って食べたりしている。何というか‥‥「撮り・旅!」発売までの全力疾走と、その直後のイベントや書店回りなどが一段落して、すっかり気が抜けてしまったのだと思う。今週は特に取材や仕事の予定もないし、月末からの旅の準備も、まだそこまで焦らなくていい時期。だったらもう、自分で自分に飽きるまで、ひたすらぼんやりしていよう、と思ってしまう。

自分の家なのに、安宿のロビーで沈没してるだらけた旅行者みたいな気分になってる。

日記という習慣

この二日間ほど、出かけたり仕事だったりでばたばたしてて、このブログを書かないでいたのだが、なぜかアクセス数はいつもよりだいぶ増えていた。「ヤマタカが日記を書かないなんて‥‥何かあったのか?」と心配して何度も見にきてくれた人がいたのかもしれない。すみません(苦笑)。

まあでも、それくらい僕にとって、こうしてWeb上で日記めいた駄文を書くことは、すっかり習慣として定着してしまった。最初に自分のサイトを作ったのは、確か‥‥(と、PC内に保存している当時のデータを見てみる)2001年3月10日。旅に出て少し途切れたりしたことはあっても、それ以来ずっと、この習慣を続けてきたことになる。

日記を続けることを目標にしてがんばってきたわけではまったくないし、別にいつでもやめていいとさえ思っている。そんなに大勢の人が読んでくれているわけでもなく、たいしたことを書いてるわけでもなく、これで文章が上達しているわけでもない。なのに、なぜか未だに続けてしまっている。

こうなったら、死の床に伏すまで、えんえんとどうでもいいことばかり書き続けるか。「あいつは最後まで、くだらないことばかり書いてたな‥‥」と言われるように。

どちらの気持も

雨粒が落ちてくるのは見えないのに、歩いてると服がじっとり湿ってくるような、そんな天気の日。

午後、南大沢で取材。相手の方に、「ライターという仕事は大変でしょう? 実はうちの息子も、フリーライターをやっているんですよ」と言われる。どんなジャンルのお仕事を、と聞くと、机の上にあった、音楽やサブカル系のムックを見せてくれた。各ページに散らばる小さな記事に、一つひとつ、丁寧に付箋が貼ってあった。

「でもね、この間、身体を壊して、入院してしまったんですよ」

聞くと、週刊誌の編集部から無茶なスケジュールでの仕事を立て続けに依頼されたり、悪質なクライアントに原稿料を踏み倒されたり、あちこち振り回されているうちに体調を崩してしまったのだそうだ。

「ライターの仕事はやめた方がいいんじゃないか、とも言ったんですが、聞いてくれなくてね‥‥」

そうですね、とも、もう少し見守ってあげてください、とも、僕は言えなかった。何者かになろうとして、必死にあがいている駆け出しのライター。息子の書いた記事に付箋を貼りながらも、行末を案じている父親。どちらの気持も、僕には痛いほどわかる。

たぶん僕は、他の人よりほんの少しだけ運がよかったから、今の仕事をかろうじて続けられているのだと思う。

島田潤一郎「あしたから出版社」

あしたから出版社吉祥寺のひとり出版社、夏葉社を経営する島田潤一郎さん自身による初の著書「あしたから出版社」。島田さんの文章は今はもうなくなってしまったブログで何度か拝読していて、その飾らないユーモラスな文体がすごくいいなあと思っていたので、この本も読むのをとても楽しみにしていた。で、自分の本が校了した後の帰り道、三鷹の啓文堂書店でこの本を買い、その日のうちに一気に読んだ。

バイトや派遣の仕事を転々としながら作家を目指して悪戦苦闘していた島田さんは、これ以上ないほど仲のよかった従兄の死をきっかけに、残された叔父や叔母の心に寄り添うような本を作りたいと、一人で出版社を立ち上げる。自分自身のためにもがいていた人生から、大切な人のために本を作ろうとする人生へ。訥々と語られる会社の設立から現在に至るまでの日々を読んでいると、夏葉社の本がなぜこれほど多くの読者から支持されているのか、なぜ多くの出版人や書店からの共感を集めているのかが、よくわかる。やっぱり本は、誰かのためにこそ作られるべきものだから。

僕は出版社を営んでいるわけではないけれど、組織に属さず一人で本づくりの仕事に携わっている者として、この「あしたから出版社」に書かれている島田さんの言葉は、もう、どれもこれも身に沁みて、わかりすぎるくらいわかってしまって、とても他人事とは思えなかった。僕自身、二十代の頃は出版の世界で何者にもなれず、どん詰まりの日々を送りながら、地べたを這いずるようにして生きていたから。

この本は、島田さんがまえがきで書かれているように、出版の世界に限らず、社会の中でいろんな生き方を模索している人にも通じる内容だと思う。でも、本にまつわる仕事に携わっている人にとっては、ひときわ強く心に刺さる言葉がたくさん詰まっている本でもある。

読者に届けるべき本は、必ず、いい本でなければいけない。そうでないと、全部、意味がない。

ぼくは、そういう、あこがれるような本をつくりたいのである。

ただ、便利なだけではなく、読むと得をするというようなものでもない。もちろん、だれかを打ち負かすための根拠になるようなものでもない。

焦がれるもの。思うもの。胸に抱いて、持ち帰りたいようなもの。

本づくりに携わる人たちの中で、こうした言葉を読んで、励まされたり、逆にくやしさを感じたりする人は、きっと多いんじゃないかと思う。まったく何も響かないという人がいたとしたら、たぶん、何かが決定的にズレている。

ほんのささやかなものかもしれないけれど、僕たちがやっている仕事には、きっと何かの意味がある。そんな勇気を与えてもらった一冊だった。

ハンドドリップの愉しみ

先週後半と今週初めに取材した分の原稿の納品も終え、今日は特にしなければならない作業もなく、部屋でのんびり。「撮り・旅!」の制作作業もほぼメドがついて、プレッシャーから解放されたので、ずいぶん気が楽になった。

今やすっかり習慣化したスクワットで脚のなまりを抑え(今年はほんとにタイミングが合わなくて、山歩きに行けてない‥‥)、風呂に入ってから、明日飲むためのアイスコーヒーを仕込む。といっても、いつもと同じ要領でいれたコーヒーの入ったサーバーを冷水に浸けて粗熱を取り、取り出してから冷蔵庫で冷やすだけだが。

自分の家で、ハンドドリップでコーヒーをいれるようになって、たぶんもう十年以上経つ。我ながらよく続いてるなあと思うのだが、その理由はたぶんとてもシンプルで、近所にとてもいいコーヒー豆屋さんがあって、ちゃんとした(でも高級すぎるわけでもない)お気に入りの道具を使っているからだと思う。あと、主に家で仕事をしているというのもあるのかな。台所でコーヒーをいれてる時は、不思議に落ち着くというか、ちょっとした瞑想をしてるような気分になる。

ゴルフやパチンコなんかより、圧倒的に金のかからない、健全な趣味じゃないかなと思う。