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どっしりとしたもの

最近になって気付いたのだが、僕はどうやら、軽やかなものよりも、どっしりとしたものの方が好きらしい。コーヒーは昔からもっぱら深煎りだし、ビールならIPA、ウイスキーならスモーキーなフレーバーの方がいい。

文章も、何も考えずにさらっと読めてしまうものより、わかりやすさは維持しつつも、一言々々に余韻がにじみ出るような文章を書きたいと常々思っている。写真もそうだ。パッと見が派手で映えるものより、被写体の存在感がじわじわと伝わってくるような写真を目指すようになった。

こういう僕はたぶん少数派に属する人間だし、僕が手がける文章や写真も、多数派に受け入れられるものではないのかもしれない。まあでも、それはそれでいいか、と思う。ちゃんとしたものを作れば、それはきっと意味のある形で残る。

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ケン・リュウ『母の記憶に』読了。とにかく上手いし、アイデアも多彩。『紙の動物園』でも感じたのだが、彼のルーツである中国やアジアの血脈を感じさせる作品に特に惹かれる。この本では揚州大虐殺をテーマにした「草を結びて環を銜えん」と「訴訟師と猿の王」の2作が凄かった。

家のかたち

10日ほど前、郵便受けに一枚の紙が入っていた。近所にある家の取り壊し工事が始まるので、作業中はご迷惑をおかけします、という案内だった。

僕が住んでいる界隈は住宅街で、中には相当古くて建物自体に問題のありそうな家も少なくなかったから、たぶんそういう家の取り壊しだろうと思っていたのだが、いざ工事が始まってみると、僕の住んでいる部屋から生垣と細い道路を挟んで斜向かいにある家だったことがわかった。けっして新しくはなかったが、別にボロくなっていた印象もなく、軒先と塀の間に植えられた木々も丁寧に手入れされていた。住人の方との面識はなかったけど、感じのいい家だなあ、といつも思っていた。

鳶職の人たちが威勢のいい掛け声を交わしながら、家の周囲に鉄パイプの足場を作り、防護用のビニール幕を張り巡らす音が聞こえてきた。翌日にはトラックがウインカーを鳴らしながら重機を運び込み、それから数日、昼の間は、バリバリバリ、という破壊音が間断なく響き続けた。そして再びトラックがウインカーを鳴らしながらやってきて、瓦礫を積んで運び出していく音が聞こえた。

静かになった向かいの敷地の前を、ひさしぶりに通り過ぎた。張り巡らされたビニール幕の一部が入口として開けられていた。その内側には……何もなかった。ささくれ立った木材の破片の山に囲まれて、小型のショベルカーが一台停めてあるだけだった。わかってはいたけれど、その光景は、ちょっとショックだった。

今の部屋に住みはじめてから10年近く、ほとんど毎日のように、その前を行き来していた家。そこには、住んでいた人々の日常の記憶が、みっしりと詰まっていたはずだった。家のかたちが消え失せたら、記憶はどこに行くのだろう。誰かが胸の裡に抱き続けていくのか。虚空に宙ぶらりんになったままなのか。

家というものについて、あらためて、いろいろ考えさせられた。

真似と分析

文章にしろ写真にしろ、あるいは他の芸事にしろ、好きな作家の作品を真似することが上達の近道、と指南している例を時折見かける。それはまったく間違っているわけではないけれど、ただ闇雲に好きな作品の真似をするだけでは、レベルアップするのは、真似の精度だけだと思う。

自分はなぜその作品を良いと思うのか。その良さはどこからどのようにして現れているのか。作家はそのためにどんな工夫をしているのか。それらを一つひとつ仔細に分析して、自分なりの理屈に落とし込んでいくと、それを自分の作品に照らし合わせた時、自分の良い面と足りない面がわかってくる。そういった分析のための作業として好きな作品の模倣をしてみるのであれば、悪い方法ではない。

ただ……本当にすごい作品は、そうした小賢しい分析すらも軽々と凌駕してしまう、理屈からはみ出してしまうような「何か」を持っている。それは、けっして技術的なものさしでは測れないものだ。自分だけの「何か」を掴み取るために、書き手や撮り手や描き手は、今日も魂をすり減らしている。

続けるコツは、がんばらないこと

何かしらの勉強ごととか、あるいはダイエットや筋トレとか、まあ何でもいいのだが、何かを習慣化して続けていこうとする時、一番のコツは「がんばらない」ことなのでは、と思う。

大学受験や資格取得の勉強とか、スポーツの大事な試合とか、短期的な目標を目指す時は、完全に集中してがんばった方がいい。でも、そうではなく、ずっと長い時間をかけて何かに取り組んでいく場合は、あまり負担にならない程度のことから始めて、ゆるゆる続けていった方がいい。最初からシャカリキにがんばっても、たいていどこかで無理が生じて、反動が来る。できる範囲のことをじわじわ積み重ねて、ちょっとずつステップアップした方が、反動も少ないし、結局、よりしっかりと身につく。

結果は、せっかちに求めない方がいい。気がついたら結果が出ていた、くらいの感じでいたい。今までもこれからも、仕事も私事も、がんばらないでいこうと思う。

人見知りのままで

半世紀近く生きてきて、ようやくはっきりと自覚したのだが、僕は根本的に、人見知りなのだと思う。

年がら年中、国内外で初対面の人に取材しまくってるくせに、と言われそうだけど、取材の時は仕事と割り切ってるので、業務モードのうっすらとした仮面をつけてふるまっている。だからそこそこ無難に立ち回れるのだが、たまにどうしようもなく「あ、この人、絶対に合わない」という人に取材先で出くわしてしまうと、自分の中の拒絶反応を抑えるのにものすごく苦労する。たぶん、2割くらいは表に出ちゃってるんだろうな(苦笑)。

業務モードでない時は、多人数の飲み会とかもごくたまに勇気を振り絞って足を運んではみるのだが、たいてい一番隅っこの席に逃げ込んで、一人でビールを飲みながら「時よ早く過ぎろ」と念じている(苦笑)。知ってる人ばかりだと大丈夫なのに、やはり初対面の人には気後れしてしまう。

でもまあ、それはそれでいいか、と思う。別に、他人との出会いをシャカリキに求めてるわけでも、自分を認めてほしいと渇望してるわけでもないし。自分は自分。やるべきことを淡々と積み重ねながら、毎日を生きていく。繋がる人とはいつか繋がるし、繋がらない人とは無理に繋がる必要もないし。

明日も、明後日も、淡々と、生きていこう。