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縁は異なもの

どうにか仕事に一区切りつけて、夜、リトスタで飲み会。夏にジュレーラダックのスタディツアーで一緒だった名古屋在住の方と、それとは別にレーで知り合って、一緒にマイナーなゴンパめぐりをした鹿児島出身の女の子がそれぞれ上京してくるということで、東京のラダック組と一緒に飲もうということになったのだ。

三鷹界隈の小さなレストランに、ラダックに行った経験のある人が四人も‥‥と思っていたら、「山本さん?」と声をかけてきた人が。なんと、三年前にダー・ハヌーでボノナーという祭りを一緒に見た年下の友人だった。会うのは去年のナマステ・インディア以来。わざわざラダックの写真展を見にきてくれたのだという。思いがけない再会に、宴も大いに盛り上がった。

この日はリトスタの元スタッフのワコちゃんも来店していたのだが、彼女もラダックに行ったことがあって、去年のラダック写真展に来てくれたのが縁でリトスタで働くようになったのだった。縁は異なもの味なもの。人と人とのつながりは、つくづく不思議だなあと思う。

メギとワイワイ

日曜だけど、急いで書かなければならない原稿があるので、出かけられない。食事を作る暇も惜しいので、昼はサッポロ一番みそラーメンに、ざく切りにした便利菜と、玉子とラー油を入れたものをささっと食べる。

ラダックでは、インスタントラーメンのことを「メギ」と呼ぶ。これはラダック語ではなくて、一番たくさん出回っているラーメンが、ネスレのマギーブランドのものだから。「マギー」が「メギ」と微妙に変化して、そのまま呼び名となっているわけだ。

本来はいろんな味のバリエーションがあるらしいけど、ラダックで出回っているのは、マサラ味の粉末スープが入っているものばかり。一度食べると正直飽きてしまう味なのだが、トレッキングに持っていくと、寒い時にはメギのマサラスープが身体をあたためてくれるので、割と重宝する。それに、どんなに山奥の村でも、一軒でも店があれば、まず間違いなくメギが売られている。旅のスタイルによっては、ラダックで一番口にする機会の多い食べ物かもしれない。

ラダックの子供たちは、このメギが大好き。お湯で調理して食べるのはもちろん、袋を開けて粉末スープをふりかけ、ベビースターラーメンよろしくぽりぽり食べるのも好きだ。まあ、あんまり子供の身体にはよろしくない食べ物だが、どこの国でも、子供たちはそういう身体に悪そうな食べ物が大好きだからなあ。

最近のラダックではメギのほかに、ワイワイという他のメーカーのラーメンも見かけるようになった。こっちはマサラ味ではなく、何か微妙な感じの味付けで、ラダック人にはあんまり人気がない。食料品店でも売れ残りがちだから、僕のような外国人がトレッキングの食料を調達しに行くと、メギの代わりにワイワイを売りつけられそうになる(笑)。メギファンの人はご用心を。

トークイベント

今日はいよいよ、写真展の会場に旅音の林澄里さんをお招きしてのトークイベント。途中で頭が真っ白に飛ばないように、午前中のうちに家でトークのイメトレをしてから、支度をして、十二時に会場入り。ちょこっとトラブルがあったものの、事なきを得て、どうにか準備完了。

開場時間になると同時に、お客さんがどっと入ってくる。自分で呼びかけておいて何だが、すごい人数だ‥‥。大丈夫か俺。写真をスライドで見せながらのトークイベントは去年二回ほどやらせてもらった経験があるが、ゲストを迎えてのトークは初めてだし。こうなったら、当たって砕けろの覚悟でいくしかない。

一時過ぎから、トーク開始。どんな感じのトークになったのかは‥‥あんまりよく憶えていない(苦笑)。自分がしゃべることと、林さんが話しやすいように話題を振ることにとにかく必死で、記憶が断片的にしか残っていない‥‥。はたしてうまくいったのだろうか。でも、ミヤザキ店長が用意してくれたリトスタ特製お弁当は期待を裏切らないおいしさだったようで、お客さんたちがおいしそうに食べていたのは憶えている。お弁当に助けられた(笑)。

二時半にトークを終え、本を購入してくださった方々にサインを進呈したり、質問に答えたりしているうちに、閉場の時間に。長かったような、あっという間だったような。撤収作業を終え、林さんやイベントを手伝ってくれた人たちと一緒にお弁当をいただく。肩の荷が一気に下りて、腑抜けたような気分。

夜は吉祥寺でジュレーラダックの関係者さんたちと合流して、アムリタ食堂で打ち上げ。長居したのにいろいろサービスしてもらってしまった。林さんやみんなと別れ、ほろ酔いで帰宅。しかし、明日の取材の準備をしなければ‥‥。

ともあれ、イベントにお越しいただいたみなさん、本当にありがとうございました。

募金の使い道

昨日の夜にリトスタに行った時、ラダック写真展の開催期間中に置かせてもらっている、洪水被害復興支援の義援金の募金箱をチェックすると、予想以上にたくさんのお金が入っていて、びっくりした。募金してくださった方々、本当にありがとうございます。

NGOジュレーラダックが実施しているこの義援金に関しては、先日、その具体的な使途についての計画が発表された。親を亡くした孤児たちの支援をはじめ、ツァンパを作るためのランタック(水車)や、壊れた家屋、橋などを修復するための支援が予定されている。義援金集めを呼びかけている側としても、しっかりと先を見越した使い道が決まったので、よかったなあと思う。

ラダックでは、一部の支援団体が被災者に現金を直接渡したりしていると聞く。神戸の震災を経験した知人に聞くと、被災者の方々の心理としても、やっぱり現金はノドから手が出るほど欲しいのだという。だが、しかし‥‥。見舞金と割り切るのならいいのかもしれないが、それが本当に復興に繋がるのかというと、疑問に思わざるを得ない。特に、ラダックのように苛酷な自然環境の場所では、現金だけではどうにもならないことも多いから、なおさらだ。互いの団体が連絡を取り合って、最適な使い道を見つける努力をすべきだと思うのだが‥‥。何にせよ、難しい問題ではある。

自分の番

最近、死について考えることが多くなった。

どんな人間も、いつかは必ず死を迎える。そんなことは、ずっと前からわかりきっていたはずだった。でも、自分自身の死となると、茫洋とした遠い未来の出来事のような気がして、想像することができずにいた。それを、すぐにでも起こりうるリアルな出来事として感じるようになったのは、ここ数年のラダック滞在の中で、死と紙一重の場面に何度か遭遇したからだろう。

凍結した川の上を往くチャダルの旅では、目の前で一人のトレッカーが川に落ちて溺れかけたし、その一年前には、経験豊富なはずのザンスカール人男性が一人亡くなっていた。今年の夏のカルナクの旅では、集中豪雨で増水した濁流に行手を阻まれ、危うく流されてしまうところだった。同じ時、他のもっと易しいはずのルートで、何人ものトレッカーが命を落とした。そして、チョグラムサルをはじめとするラダック各地では、何百人もの人々が土石流に巻き込まれて亡くなった。今も行方不明の人が大勢いる。老人も、若者も、幼い子供も——。

どうして、彼らはあの時、死ななければならなかったのか。なぜ、自分は生き残ったのか。

いつかは必ず、自分の番が来る。病気かもしれないし、事故かもしれないし、もっと他の理由かもしれない。それは四十年後かもしれないし、十年後かもしれないし、明日かもしれない。でも今、自分はとりあえず、神様の気まぐれのおかげで生き残っている。もしかすると、そのことには何かささやかな意味があるのかもしれない。そうだとすると、その意味を活かせるかどうかは、自分自身にかかっている。

「一日々々を大切に生きていく」というのはよく言われることだけど、実はなかなか難しいとも思う。何もかもが自分の思い通りになるわけではない。うまくいかない時もある。サボりたい時だってある。毎日、確実に前に進んでいけるとは限らない。でも、少なくとも、自分が何を目指して進んでいるか、その方向だけはきちんと確かめて、ぶれないようにしなければならないとは思う。

文章を書いたり、写真を撮ったりすることで、それを見た人の心を、ほんの少しでもいいから動かす。それが、僕が選んだ道。そして、何者かが僕に与えた役割。どんな時も、そのことだけは忘れないようにしたい。いつか、自分の番が回ってきたとしても、「ま、仕方ないか」と笑いながらそれを迎えられるように。