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期待という名の賭け金

昼、印刷会社から連絡。ガイドブックの第一次修正作業が終わって、データを用意してくれたとのこと。さっそくPDFをダウンロードしてチェックする。

この修正作業、先週末までに僕と編集者さんが用意した、修正指示で真っ赤になったゲラを基に、今週いっぱいかけて印刷会社のオペレーターさんが取り組んでくれていたものだった。途中聞いていた話では「とても手に負えない部分もあるので、かなりの部分をまたデザイナーさんにお願いするかもしれない」という雲行きだったのだが、PDFを見て、びっくり。「ここまで直ってるとは」とちょっと驚いてしまうほど、綺麗に手を入れてくれていた。これなら、この後の作業は格段に楽になる。

一冊の本は、一人の力だけではできない。たくさんの人たちが力を貸してくれて、初めて作り上げることができる。単なる仕事や人付き合いの枠を越えて、みんなは言い出しっぺの僕に、期待という名の賭け金を賭けてくれているのだ。それは、時にとてつもなく重く感じるけど、同時に自分を支えてくれてもいる。

あともう少し、がんばらねば。

日々勉強

ガイドブックのゲラチェック作業も、どうにかこうにか一区切り。週明けには編集者さんに戻せる状態になった。少なくともあと2回は、これと同じような苦労をしなければならないのだが‥‥(汗)。

編集者として、ライターとして、それなりに長い年月を過ごしてきたけれど、新しい本に取り組むたびに、勉強になることがたくさん見つかるなあ、と思う。今回のガイドブックでも、編集者さんと会って打ち合わせをするたびに、ガイドブックならではの手法に基づいた指摘をしてもらって、「なるほど〜」と納得させられることがある。

結局、想像力なんだな。どういった読者がその本を買って、どんなシチュエーションで、何を求めてその本を読むか。読者の身になってシミュレートしてみると、思いがけない弱点が見つかったりする。自分はまだまだ、そういうところが甘い。日々勉強だな。

「伝える者」としての仕事

昨日の午後は、ジュレーラダック主催のトークイベントにゲストとして出演して、写真をスライドで見せながら話をした。持ち時間は30分だったのだが、結局、10分以上もオーバーして喋ってしまった。会場は思ってたよりも盛況で、終了後にも何人かのお客さんと話をさせていただいた。自宅からわざわざ僕の本を持ってきて、サインを依頼してくださった方も二人いて、何だかとても嬉しかった。

僕はライターで、編集者で、時々はフォトグラファーでもあるけれど、トークに関しては、技術的にもとてもプロとは言えないと思う。でも、トークイベントで人前に出る時は、いつも「これも大切な仕事だ」と自分に言い聞かせて、万全の準備をして臨むようにしている(今回はギャラは発生していないけど)。わざわざ時間を作って、遠路はるばる足を運んで、お金を払ってまで見に来てくれるお客さんに対して、いいかげんなことはできないし、したくない。ちょっとでも「見に来てよかったな」という気持を持って帰ってもらうために、全力を尽くす。それも、「伝える者」としての自分の仕事なのだと思う。

これからも、折々に機会があれば、そういう役割をきちんと果たしていきたいと思う。

ありのままを

昨日の夜、ラダックガイドブックの初校が上がってきた。紙のゲラは明日届くのだが、一足先にPDFで全体の様子を見渡してチェックしている。

見ていて思うのは、何というか、「ラダックの風息」と同じ気配をまとった本だなあ、ということ。今回の本はガイドブックだから、内容も造りもまったく違うはずなのだが、全体を通じて伝わってくる気配は、まぎれもなく「風息」のものだ。書き手と撮り手とデザイナーが前と同じだから、というだけでは説明できない理由がある気がする。

たぶん、どちらも「ありのままのラダック」を伝えようと悪戦苦闘している本だから、そんな風に感じられるのかもしれない。伝わっているかどうかは、わからない。でも、僕が伝えたいことは、どちらの本にもありったけ、ぶち込んでいるという自負はある。

編集作業も、いよいよ佳境。最後まで気を抜かずに、いい本を作る。

生き方を選ぶ

昨日の夜は、渋谷のしまぶくろという沖縄居酒屋での飲み会。以前、ジュレーラダックの事務局で働いていた荒川さんが、カナダの農場でのWWOOF生活から一年ぶりに帰国したので、そのおかえりなさい会だったのだ。

僕がジュレーラダックの人たちと知り合ったのはかれこれ五年も前のことになるが、その頃からの顔なじみの面々もたくさん揃って、何だかとても懐かしい気分になった。五年の間に、仕事が変わった人、結婚した人、いろいろあったけれど、それぞれの人生が続いているのだなあ、と感じたり。

人生では往々にして、どういう道を進むか、誰とともに生きるか、生き方を選ばなければならないことがある。そういう選択を一度も誤らずに一生を終える人はまれで、ほとんどの人は、間違えたり、つまずいたり、踏み外したりする。感情に左右されて冷静な判断ができずに、時には誰かを傷つけてしまうこともあるかもしれない。僕自身、今まで何度も間違いを重ねてきた。

でも、最近になって思うのは、生き方を選ぶ時は、それを選ぶ自分自身を後からでも肯定できるような選び方をしたいな、ということ。あとで後悔するかもしれないけど、その時の自分自身まで否定したくはないから。

最後の最後に、「まあ、そんなにひどい人生でもなかったな」と思いながら終われたら、と思う。