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あれから十年

昨日の夜は、割と大きな地震があった。震源地は福島県沖で、福島や宮城では震度6強を記録し、あちこちで被害が出たらしい。

東京も震度4くらいで、西荻に越してきて以来、一番大きな揺れを感じた地震だった。ものが落下するとかは特になかったけれど、揺れている時間がいつもより長いなあ、とは思った。まあ、三鷹に住んでいた十年余りはマンションの1階で、今の西荻の部屋は4階建ての3階だから、同じ震度でも揺れは大きめに感じていると思う。

三鷹に住んでいた、2011年3月11日。あの時、部屋で感じた揺れも、机の上のカップからコーヒーがこぼれるくらい大きかったし、何より揺れの続く時間がいつになく長かったことに、不安を感じた。昨日の地震で思い出したのは、あの十年前の地震の、揺れていた時間の長さだ。明らかに普通じゃないぞ、という感触があった。それからのてんやわんやの日々は、言うに及ばず。

あれから、もうすぐ十年。地球が、ほんのちょっとでも気まぐれを起こせば、いつでもまたああなりうるということを、すっかり思い出させられた気がする。

人間は、ほんの芥子粒のような存在でしかないのかもしれないけれど、油断せず、過信せず、できる範囲で、精一杯、生きていこう。

東京五輪

2020年の東京五輪には、もともと、まったく興味がなかった。各国の代表選手や関係者の方々には悪いけれど。

僕の自宅にテレビはないし、観戦チケットに応募するという発想も1ミリもなかったし、開催期間中は東京を離れて、ラダックかどこかに滞在するつもりでいた。昨年来のコロナ禍で、東京五輪も、僕の海外渡航も、延期になってしまったわけだが。

僕の海外取材の仕事が復活するのは、どんなに早くても今年の暮れ以降になると予測しているのだが、東京五輪の主要関係者はまだ、今年の夏に予定通り大会を開催すると息巻いているという。東京はいまだに緊急事態宣言の真っ只中で、入院したくてもできない罹患者が何千人もいて、医療従事者も一般市民も疲弊し切っているというのに。

この状況下で、おそらく全部で数万人以上になる世界各国の代表選手団やその関係者を国内に招き入れ、コロナ対策を講じながら大会を開催するのは、どう考えても無理だ。そのために必要な医療従事者の人員を確保できるわけがない。各地の病院は慢性的に人手不足だし、大会と同じ時期には、全国各地でワクチン接種も実施されているはずだし。

そもそも、裏金と賄賂で誘致してきた五輪だった。新国立競技場はコンペの段階からグダグダだったし、大会エンブレムのデザインはパクリだったし、もっともコンパクトな大会になると謳われていた予算は、3兆円にまで膨れ上がった。そして昨年のコロナ禍で、何の根拠もないまま、とりあえずの1年延期。今、世論調査で国民の8割が中止か延期を望んでいる中、日本政府も東京都もIOCも、中止の言い出しっぺになって責任を負いたくないので、だんまりを決め込んでいる。

今は、世界中の人々が、とにかくコロナ禍を生き延びて、自分たちの生活を守り抜くために、ただただ必死にもがいているのだ。各国の代表選手や関係者の方々には悪いけれど、東京五輪は、今のこの状況でやるべきことでは、まったくないと思う。それよりもずっと大切な、社会を挙げて取り組まなければならないことが、たくさんあるはずだ。

巻き添えを避ける

少し前からの欧米諸国の状況から、ある程度予想されていたことではあるが、日本にもいよいよ、コロナ禍の第三波がやってきた。

この一年間を振り返ってみても、日本の行政の対応はまったくあてにならないとよくわかったので、自分の身は自分で守るしかない。外出中のマスク着用。こまめな手指の消毒。人混みへの外出を避ける。大人数での外食や飲み会も避ける。帰宅後はうがいと手洗いをする。ベーシックな予防対策を、地味に続けていくしかない。あとは、できるだけちゃんをごはんを食べて栄養を摂り、できるだけちゃんと寝て疲労を取り、本を読んだり音楽を聴いたり家で映画を観たりして、心の緊張を緩めることも大事だと思う(逆に、煽情的なテレビ番組やWebサイト、SNSのタイムラインは、見過ぎない方がいいと個人的には思う)。

それと、世の中がこんな風になってくると、コロナ禍に対する危機意識が明らかに低い人や、予防対策などの自己管理能力の低い人、もう自分も他人もどうなったっていいと破れかぶれになっている人なども、少なからず街で見かける。そうした人たちにちゃんとしてくれと強要することはできないが、その人たちの巻き添えを食って自分や家族にダメージが及ぶ結果になるのも、もちろんよくない。

なので、そういう損な巻き添えを避けるためには、街に出る頻度をできるだけ減らして、外出する際には周囲に気を配って用心しなければならない。こう書いてるだけで疲れる話だが、今認可申請中のワクチンが日本で出回る来年の上半期までは、我慢するしかないな、と思う。

人と人とを分かつもの

先日の米国大統領選や、大阪の住民投票の推移と結果を見ていて思ったのは、事実ではない情報によって結果が左右されてしまわなくて、本当によかったな、ということ。自身に不利な郵便投票を強権で無効化しようとしたトランプも、大阪都構想に不利な試算の数字を隠し続けた大阪維新の会も、民意を覆すまでは至らなかった。

でも、選挙や投票の結果が出た後も、意見の異なる人々を分断する溝は、さらに広く、深くなってしまったようにも思う。日本全体でも、前政権から現政権にかけての間に、異なる主張の人々の間の分断はますます深まり、どうにも手のつけられない状態にまで悪化してしまった。

人と人との間を分かつものは、何なのか。その正体は、「嘘」ではないか、と思う。

ある事柄に対して、人それぞれ、異なる意見を持つ可能性があるのは、ある意味、当然のことだ。それらの意見は、誰かを誹謗中傷したり危害を加えたりするものでないかぎり、それなりに尊重されるべきだとも思う。ただし、そうした意見は、その事柄に関する正確で客観的な事実を踏まえたものでなければならない。事実でない情報を基にした意見は、けっして検討されるべきではない。なぜならそれは、結果的に、嘘に誘導されてしまっている意見だからだ。

事実に基づく意見を持つ人と、嘘に基づく意見を持つ人とが、互いに理解し合うことは不可能だ。事実と嘘は、けっして相入れないものだから。

最近の日本でも、あるいは世界各地でも、分断をいたずらに煽っている立場の人々は、嘘が嘘であることを承知の上で、あえてゴリ押ししているように思う。たとえ自分たちの主張が嘘に基づくものであっても、それを人々に信じ込ませて、それによって自分たちが支持を得て権力を握ってしまえば、嘘が力ある正義となり、事実の方を都合よくねじ曲げてしまえると考えているのだ。さらに悪いことに、こういう人々は、嘘を主張し続けるうちに、その嘘が事実であると自分自身でも信じ込んでしまう傾向にある。

ここ数年、日本国内でも、さんざんこういう所業が行われてきた。公文書やデータの隠蔽と改竄。マスメディアへの監視と圧力。戦前と同じか、それよりさらにひどい。

僕たち一人ひとりに今できるささやかなことは、事実と嘘をできるだけ見分けることのできる目を持つこと。胡散臭い情報源からの煽動的なニュースに惑わされないこと。大手メディアからの報道であっても、複数の記事やその扱いを比較して、おかしなところがないか考えること。こうあってほしいという願望に惑わされず、客観的に、冷静に状況を判断し、自身の意見をまとめること。

人と人との間を分かつ「嘘」を取り除き、「事実」で溝を埋めていく。気の遠くなるような作業だが、今の世界を少しでもまともな状態に引き戻すには、僕たち一人ひとりが、そう心がけるしかないのだと思う。

原稿執筆ぼっち合宿 in 湯河原


今週月曜から木曜までの3泊4日で、一人で温泉旅館に籠もってひたすら原稿を書くという、原稿執筆ぼっち合宿を実行してきた。滞在地に選んだのは、湯河原。夏目漱石や芥川龍之介など、明治・大正期の文豪も、よくここの温泉宿に籠もって原稿を書いていたという。

今回のぼっち合宿では、The Ryokan Tokyo YUGAWARAという旅館の「大人の原稿執筆パック」というプランを利用した。朝・昼・晩の3食の食事付きで、通常の食事付きの宿泊よりも割安に泊まれるプランだ。部屋は畳敷きの和室で、外からは秋虫の鳴き声がかすかに響くだけで、とても静か。館内ではWi-Fiも利用できる(が、接続が時々切れる)。いやが上にも執筆が捗りそうな環境だ。

温泉旅館なので、館内にはもちろん大浴場があって、朝方と、夕方〜夜の時間帯に、自由に利用できる。自分の場合は、朝起きてすぐに温泉に入ってさっぱりし、8時に朝食。午前中に執筆を進め、12時に昼食。午後も引き続き執筆し、18時に夕食。その後また温泉に入って、23時頃まで執筆。冷蔵庫に入れておいたビールを飲んで就寝、というスケジュールで過ごした。